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ブータンとはどんな国

4月16日(木)、17日(金)
日本出発、ブータンへの経路
4月18日(土)
首都ティンプー市のプロフィール、市場、メモリアル・チョルテン、墓地、ドゥプトプ尼僧院、タシチョ・ゾン、シムトカ・ゾン
4月19日(日)
紙漉工場、国技の弓、美術学校、歓迎レセプション
4月20日(月)
ドチュラ峠、ブータン・シャクナゲ、ロベイサ村、プナカ・ゾン、プナカ・ゾン
4月21日(火)
ウォンディ・フォダン・ゾン、王立舞踊団、チュゾン、タチョガン・ラカン
4月22日(水)
パロ市のプロフィール、ドュルゲル・ゾン、タクツァン僧院、国立博物館、パロ・ゾン、キチュ・ラカン、農家訪問、ダショー
ブータンの素顔・感想
4月23日(木)ブータン最後の朝

4月22日(水)
ドュルゲル・ゾン、タクツァン僧院、国立博物館、パロ・ゾン、キチュ・ラカン、農家訪問、ダショー
今日は、最後の旅行地パロ市内を観光する。ここで、パロの街について簡単に触れてみたい。
「パロ」はブータンの玄関口である。インド経由でブータンに入国すると、最初に訪れるのがこのパロである。したがって、道路事情が悪いブータンでは、東部ブータンから西部ブータンに入るのには、一旦インドに出てからパロ〜ティンプーに入らざるを得ないという。それでも6日間ぐらいの日数がかかってしまうという。

山がちなブータンの中で、パロは比較的平坦な土地があり、昔から農業が盛んな地域で経済力を誇っていたようである。先ほども触れたように、パロはチベット、インドを結ぶ重要な交易ルートにもあたっている。したがって、ブータンで空港があるのもパロだけである。標高は2,300mで、ティンプーよりやや低いところに位置する。

今日の最初の目的地は、ジョモラリ山、ドュルゲル・ゾンであった。パロ市内からパロ・チューに沿って北へと車は登っていく。最初に到着した集落で、「ジョモラリ山」標高7,326mの秀峰を遠望できた。みんながしばらくの間、ジョモラリ山の秀峰に向けシャッターを切った。

再び、ドュルゲル・ゾンに向かって上がっていく。道中で、数頭の馬に荷物を背負わせて農産物を売りに行く旅人の群に幾度も出会った。


荒城となった
『ドュルゲル・ゾン』
■ドュルゲル・ゾン(廃墟のゾン)
国境近くにある「ドュルゲル・ゾン」は、チベットとの要衝にあった。ブータンが、チベット軍の侵攻に遭ったときも防衛上の大きな役割を果たしたのもこのドュルゲル・ゾンだという。その後、1951年の火災で焼け落ち修復されないまま現在に至っているが、この廃墟のゾンが何ともいえない美しい景色であった。


民家の壁に描かれた『ポー』
ゾンの入り口には、数戸の民家が立ち並び、その脇に「イトスギ」(宗教的な場所に植えられる樹木)の巨木がある。また、水車による「マニ車」(お祈りのときに手で回転させながら拝む。)が回転していた。農家の白壁には、お守りの立派な「ポー」(男根)が描かれていた。(中には、木で作ったものを家の入り口に飾るところもある。)


農産物を売りに行く農夫
ゾンから降りると、途中われわれの車が追い越していった馬連れ農夫が到着しており、水車小屋の脇で馬に水を与えながら休んでいた。この農夫は、野宿をしながら街まで物売りに行くそうである。目的地に着くまでには5〜6日かかる長旅だという。

■タクツァン僧院(1694年建)
「タクツァン僧院」は、チベット仏教圏の中で一番の聖地といわれている。標高3,000mの岩山の絶壁に張り付くように建っている。創建者は、ブータンに仏教を広めたといわれる「グル・リンポチェ」(パドマサンババ)といわれ、8世紀のはじめ虎に乗ってこの地に飛んで来たといわれることから、この地を「タクツァン」すなわち「虎のねぐら」と呼ぶようになったという。この僧院に到達するには、非常に急峻な山道を登らなければならないため、今回はその偉容を遠望するにとどめざるを得なかった。不幸にもわれわれがブータン旅行中の4月19日火災に遭い、この寺院の一部を焼失したという事件が起こった。残念なことである。

■国立博物館
国立博物館は、パロの市街地を見下ろす山の中腹にある。半円形をした変わった建物である。もとは、真下にあるパロ・ゾンを見守るために建てられた望楼であったようだ。

傾斜地に建っているため、建物の4階に入り口があり内部は6階になっている。展示物は2,000点(?)といわれ英文による説明が付けられていた。
学芸員として勤務していた若い女性は、最近まで日本に留学していたと、私たちに懐かしそうに話しかけてきた。

■パロ・ゾン(創建15世紀)
「パロ・ゾン」の正式名称は「リンプン・ゾン」と呼ばれる。「宝石の山城」という意味のようである。パロ・ゾンは、15世紀頃チベット帰りの僧によって創建され、その後シャプドゥンが譲り受け、大建築に着手したといわれる。現在のものは1907年に完全に焼失し、その後再建されたもののようである。内部は非常に立派だと聞いたが、みんな疲れていたので川向こうから遠望することになった。

パロ・ゾンは、すぐ上にある国立博物館の建物と合わせて眺めると、一層美しい景観としてとらえることができた。


荒城となった『ドュルゲル・ゾン』
■キチュ・ラカン
(639年創建の最古の寺)

「キチュ・ラカン」は、チベットを初めて統一した「ソンツェン・ガンポ王」が、チベット全域に大きな力を持っていた「魔女」を封じるために建立したといわれる。

伽藍全体がきらびやかな造りになっており、黄金のラカンとも言われている。旧堂には、釈迦を中心に複数の十一面千手観音が安置されていた。寺院の中庭には、ミカンの原種といわれる古木があり、寒い時期だったにもかかわらずたくさんの実をつけていた。(この木は年中結実するという。)


農家訪問で懇談の一時
■農家訪問
パロ市内の農家訪問に向かった。訪問した農家の集落は「ダショー・ニシオカ」追悼チョルテンのあるボンデ(村)でブータン唯一の農業地帯であった。私たちは、この地に来て初めて資材を積んだ農耕用のテイラーが走行している風景に出会った。訪問した農家は、上級の農家と聞いた。丸太2本を階段状に削り落として作った梯子を登ると、居間、寝室、客間があった。客間は、磨かれた板の間だったが「靴のままでよい」とのことだった。そこには立派な仏壇も安置されている。(どこの家庭でも仏壇は最高の場所に安置するということである。)

最初に、サービスされたのが「バター茶」だった。みんな、この独特な臭いには参った。次に「アラ」(蒸留酒)のサービスをしていただき、農家の家族としばらくの間懇談を行った。

ここで、「ダショー・ニシオカ追悼チョルテン」についてふれてみたい。
 西岡京治氏(1933年ソウルに生まれる)は、1962年に大阪府立大学東北ネパール学術調査隊(中尾佐助隊長)に加わった。氏はヒマラヤ地方の農業に関心を抱き、1964年、国際プロジェクト・コロンボ計画の専門家となり、海外技術協力事業団(現、国際協力事業団)から派遣されることとなった。

里子夫人とともにブータン入りした西岡氏は、当初2年という任期であったが、ブータン政府からの強い要請もあって、結局1992年に現地で亡くなるまで実に28年という長い間農業指導に専念した。このことにより、1980年には国王から「ダショー」の称号が授与された。今でもブータンの人たちの崇敬は篤く、ボンデ・ファームを見下ろす尾根にダショー・ニシオカ追悼チョルテンが白く美しく輝いている。
(ダショー称号=貴族・政府高官などに贈られる爵位)

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