11月6日(水)
関西空港12時00分出発、途中シンガポール、ドバイ、(アラブ首長国連邦)経由、イスタンブールである。
南回りのかなりハードな機内生活となるが、これも旅費を安く上げる苦肉の策のようである。
トルコは、緯度にして40度くらい、日本の東北地方の季節と同じくらいと見てよい。しかし、11月頃から雨季になるようでその点が少し心配ではあった。いろいろな都合から好季を逃してしまったのだから致しかたないのかもしれない。
トルコの魅力は、なんといってもアジアの最西端、アジアとヨーロッパの接点といわれるところにある。
シルクロードの街道すじにあり、幾多の民族が行き交いさまざまな文化を残して行ったところである。
正に、歴史と文化遺産の宝庫、文明の十字路であり、また自然遺産が多いことからでも有名である。
国土は、815千平方km、人口62,866千人(97年国調)というから、国土は日本の約2倍、人口は約半分といったところである。
首都は、1923年共和国の誕生とともに西端にあるイスタンブールから中心部(内陸)のアンカラに移っている。
宗教は、99%がイスラーム教徒であるが、最近は民主化が進みきわめて自由になっている。
11月 7日(木)
イスタンブール
イスタンブール空港に到着したのは現地時間午前7時30分であった。早速入国手続きを済ませ休む間もなく観光に入った。現地ガイドは、ムスターファさん実にハンサムな好青年で日本語もとてもうまい。ドライバーはユミットさんである。
トルコに入って、真っ先に驚くのが通貨の単位である。
日本の1円がトルコでは1万2千リラ、ちょっと戸惑うがお札に表示されている数字の「0」を下から4つ消して考えれば大体相場が理解できる。因に、日本への葉書代は600,000リラ、公衆電話(テレカ1枚)6,000,000リラで短い時間なら日本へ3回ぐらいは通話ができる。
このほか、トイレのチップ250,000リラ〜500,000リラ、ホテルの枕銭500,000〜1,000,000リラ、ビール(350ml)3,000,000〜5,000,000リラ、ワイン5,000,000〜8,000,000リラぐらいと頭に入れておけばよい。
空港を出ると、城門の脇を通ってイスタンブールの市内に入る。城壁はもともと85kmあったが、現在では取り壊され5kmだけしか残っていない。2重構造の実に堅ろうな城壁で、容易に攻略できないものだったらしい。
イスタンブールの町は、ボスポラス海峡を挟んでヨーロッパ側(旧市街地)と、アジア側(新市街地)に分かれている。
観光スポットやオフィスなどはヨーロッパ側に集中しており、アジア側は住宅地区となっている。
この両市街地は、第1ボスポラス大橋と第2ボスポラス大橋(ファティプメフメット大橋)、さらに上流(黒海側)にある大橋との3本で結ばれているが、最近交通量が多くなり3本の大橋では捌き切れず、さらにもう1本の新橋を建設しようという話がもち上がっている。
この海峡は、一たん大きな湖のようなマルマラ海に入り、ダーダネル海峡を経てエーゲ海に出ていく。
■イスタンブールの歴史■
- 紀元330年5月11日 ローマ帝国コンスタンティヌス大帝が都をローマからビザンティオンに移し、ここを「新ローマ」と名付けた(帝国の東半分の首都)。古都の名にちなみ「ビザンツ帝国」と呼ぶ。中国の長安やバグダードと並んで世界最大の都市となる。
コンスタンティノープルは、キリスト教の中心地として、またシルクロードの終着駅として繁栄の極みに達する。
1204年4月6日 第4回十字軍により陥落する。
1264年頃 (1204年から60年後)ビザンツ側が奪還するが、弱体化は否めなかった。
1453年5月29日 オスマン朝スルタン、メフメット2世軍がコンスタンティ・ノープルに入り繁栄を取り戻す(しかし繁栄は長く続かなかった――オスマン朝も後退に次ぐ後退の日が続いた)。
1923年10月13日 ムスタファ・ケマルを中心とする大国民会議は、憲法を改正し首都もイスタンブールからアンカラに移す(イスタンブールの首都時代は終る)。
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イスタンブール見学施設
●ブルーモスク(スルタンアフメット・ジャミィ)
 スルタンアフメット・ジャミィ(ブルーモスク)の偉容
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旧市街地にあるブルーモスクは、正に観光のシンボルである。
ビザンチン建築の傑作ともいわれるブルーモスクは、直径27.5m高さ43mの大ドーム、そして4つの副ドーム、30の小ドームからなる。特に、6本のミナーレをもつモスクは世界でも珍しい。
モスク内は独特の雰囲気をもっており、260の小窓のステンドグラスの光が淡く、内壁を飾る20,000枚以上のイズニックタイルを照らし出している。
出発前、並河萬里(写真家)のトルコなどの写真展を見ていたので感動も一入だった。とても素人のカメラなどで撮り込めるようなしろ物ではなかった。
建築は、スルタンアフメット・アーの設計といわれ、1616年に完成している。
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 アヤソフィア博物館
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●アヤソフィア博物館
アヤソフィア博物館も、ビザンツ建築の最高傑作と評される建築である。さまざまな宗教に利用され、トルコの歴史を体現してきた建築物である。
西暦325年、コンスタンティヌス1世により教会の建築が始まり、360年 コンスタンティヌス2世の時代になって完成した。その後、幾たびかの消失を経て、537年時の皇帝ユスティニアヌスの命を受け、6年近い歳月をかけてビザンツ様式の大聖堂が完成した。ビザンツ帝国が終るまで、ギリシア正教の大本山として崇拝されてきた。大ドームの円形屋根は直径31mで、ロドス島で造られた軽いレンガが用いられている。

洗礼者ヨハネと聖母マリアに囲まれたイエス
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内部には、多数のモザイック画が残されているが、1453年コンスタンティノープルが陥落し、スルタン・メフメット2世の時代になり、聖堂はジャミィに変えられ、ミフラーブなどがつけられモザイック画も漆喰で塗りつぶされてしまった。その後、1931年モザイック画が塗りつぶされていることがわかり、改修して元の姿によみがえりつつある。現在もドーム内に足場が組まれ修理作業が行われていた。

聖母マリアの手形(別名すすり泣く柱) 手首を1回転できれば願い事がかなう
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内部には「マリアの手形」といわれる柱がある。別名“すすり泣く柱”ともいわれ、柱のくぼみに指を入れいろいろな占いを行っていた。くぼみが濡れていれば視力がよくなる。子宝に恵まれる。願いが叶う。また、くぼみに親指を入れて、残りの4本の指を1回転させることができれば願い事が叶うといわれている。みんなが試しているので穴がずいぶん大きく擦り減ってきたため、いまは銅版で補強されているがこの銅版もかなり擦り減っていた。
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●地下宮殿(宮殿のような貯水池)
昔から、イスタンブールは飲料水には大変に気を遣うところであった。市内には、地下水の貯水池が数ヵ所発見されている。この地下宮殿の水は、水道橋を通って遠くから導水されたものである。今でも、町でその水道橋の形骸を見ることができる。この貯水池の大きさは、縦140m、横70m、高さ8m、336本の柱(円柱28本×12列)で支えられている。現在、南西の壁の部分が塗りつぶされ、90本の柱はなくなっているというから、元の大きさの3分の2強に縮小されていることになる。見どころは、宮殿の奥にあるメデューサの顔が、柱の下部(水中)に逆さ1基、横のもの1基が見ものである。
 涙の柱といわれる…水中から無数の手首が… 手首は最近造られたアート |
 有名なメデューサの顔 |
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●トプカプ宮殿
 スルタンの栄華を今に伝えるトプカプ宮殿へ
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トプカプ宮殿は、15世紀の半ばごろから20世紀初頭ににかけて勢力を誇っていたオスマン朝スルタンの居城で、スルタンの栄華の証でもある。
敷地面積70,000uという広大な敷地は、宮殿だけで1つの町になっている。
建設したのは1453年イスタンブールを陥落させたメフメット2世が1460年から建設に着手し、増築を重ねながら現在の姿にまで大きくしたという。敷地内には、スルタンの居室はもとより、議会棟、図書館、臣官たちの部屋、武器庫、厨房、側室たちの部屋などが配置されている。
現在、厨房棟は展示館として使われており、陶磁器(中国のものが大部分で、日本の有田焼や伊萬里のものもある)武具などが展示されていた。また敷地は中央で区切られて、第2の庭園と第3の庭園に分かれており、この庭園を区切る障壁の中央あたりに「幸福の門」と称する中門がある。昔は公賓しかこの中には入れなかったというが、今では一般観光客でも入って見学できるようになっている。中には、ムハマントの豪華な遺品が展示されている。 庭園の一番奥の一角には官臣の部屋、ハレム(妻や側室の部屋)、母后のための中庭、愛妻のテラス、バーダッド・キョシュキュ(ラマダン期間、1日の断食を終え夕食する場所)がある。それぞれイズニック・タイルをふんだんに使った装飾が圧巻である。
|  食堂を飾るイズニックタイルの美しさ |
|  青が鮮やかなイズニック・タイルがふんだんに使われた部屋 |
|  日本の有田焼、伊萬里焼もある |
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