世界旅トップページ
新緑の「中・東欧」の旅

トップページ 4月23日 25日 26日 27日 28日 29日 30日 5月1日 雑感


4月30日(金)
 今回の最後の訪問地ベルリンである。今日の観光が無事に終わることのみを願った。

建設の進むベルリン市内
建設の進むベルリン市内
 ベルリン市内へは案外スムーズに入っていった。ベルリンを東西に長い間分断していたことが町の雰囲気をこんなにまでも変えてしまうのかと驚くばかりだった。

 ここで、ベルリンの歴史を振り返ってみたい。

 ベルリンがドイツ帝国の首都になったのは、明治維新よりも後の1871年。したがって、東京都の歴史よりも新しいことになる。新しい町だったため、国内はもとより、周辺の国々から次々と移民が起り急速に成長発展してきた。

 最初、フランスからのユグノー教徒が移ってきた関係で、ベルリンにはフランス風の地名が多いといわれている。したがって、18世紀にはフランス人が、次いで19世紀に入るとポーランド人が多くなり、やがてはユダヤ人が経済、文化の中枢を担うというようになった。
ベルリンの壁
ベルリンの壁

 第二次世界大戦後、東西の分断が長く続いた。いわゆる「ベルリンの壁」である。これが先年再び統一されたが、現在西暦2000年をめざして首都の整備が盛んに行われていた。

 今回の旅行中も、都市の中枢となる地区は建設機のクレーンが林立し、盛んに工事が行われている光景が見られた。まさに、ヨーロッパ最大の「建築現場」といわれている所以である。

また、大戦後の東西冷戦の証である“ベルリンの壁”はあちこちで部分的に記念物のように残されている。撤去されたところでも、昔の壁の跡が道路上に赤い線で表示されていた。

ベルリン 人口 349万人
面積 882平方キロメートル(東京23区と大阪市を合わせたぐらいの面積) 
ベルリンの壁長さ 45km
高さ 3.8m
厚さ 0.15m
「世界文化遺産」に指定。


[ブランデンブルグ門](車窓から見学)
 ブランデンブルグ門は、フリードリヒ・ウィルヘルム2世時代(1791年)に建設された。高さ20m、幅65.5mの、アテネの神殿を手本に造られた凱旋門である。6本の柱があるが、中央部分の柱の間隔が広くなっており、門の上には4頭だての馬車に乗った勝利の女神像(彫刻家シャードウの傑作)が設置されている。


ベルリン ベルガモン博物館
ベルリン ベルガモン博物館
[ペルガモン博物館]
 展示品には、古代ギリシャ、ローマのコレクション、古代西アジア美術、東洋美術、イスラム美術等がある。特に、古代ギリシャのペルガモン(現トルコのペルガマ)で発掘されたゼウスの大祭壇(紀元前180〜159年)が、高さ約10メートルで再建展示されている。

 その他の施設は、バスに乗って車窓からの見学となったが、ベルリン・フィルハーモニー楽器博物館(黄金の幾何的構造の建物)、工芸博物館、国立図書館、国会議事堂などがある中心官庁街を見てまわった。このあたりが、特に新都市建設のメッカである。
ベルリン大聖堂 第二次大戦で破壊され再建されたもの
ベルリン大聖堂 第二次大戦で破壊され再建されたもの

 そして、ビスマルク通りでバスを降り、自由散策をした。このあたりはドイツ歴史博物館、大学、大聖堂、国立歌劇場等がありこれも車窓から外観のみ見学してまわった。

 午後はポツダムへと向かった。


ポツダムについて
 ドイツ帝国統一によって生まれた東部5州のひとつで、ブランデンブルグ州の州都である。ハーフェル川とハイリガー湖、ティーフェル湖のある美しい町である。

 17世紀後半からブランデンブルグ選帝候がこの町に宮殿や庭園を建設していった。初代プロイセン王時代に宮廷都市の形態をつくりあげ、その後いく代もにわたる治世下で一層優雅な町へと変貌していった。(世界文化遺産に指定されている。)

 ポツダムは、何といってもポツダム会議、そしてポツダム宣言で知らない人はいないだろう。1945年7月17〜18日の2日間にわたって、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳により、第二次世界大戦の終結と戦後処理問題が話し合われた終戦会議の町である。

 ポツダム会談とともに思い出すのが、1945年2月のヤルタ協定(クリミヤ半島のヤルタで開かれた会議)=ソ連の対日参戦への呼びかけのあったこと(1941年4月13日の日ソ中立条約の破棄)、そして戦後日本の基本的枠組みの決定など、日本が敗戦に至るまでの一連の流れを感慨深く思い起こさずにはいられなかった。

<ヤルタ会議>
第2次大戦の末期、米・英・ソ3国首脳(ルーズヴェルト、チャーチル、スターリン)が1945年2月4〜11日クリミヤ半島ヤルタに会合し戦後処理の協定を行った。

ソビエト参戦の条件

  1. 外蒙古(モンゴル人民共和国)の現状維持
  2. 南サハリン(樺太)および千島(クリル)列島をソヴィエトに引き渡す
  3. 大連商港におけるソヴィエトの優先的利益を擁護し同港を国際化すること
    旅順港はソヴィエトの海軍基地としてソヴィエトの租借権を回復すること
    在満鉄道はソヴィエト、中国の合弁会社として共同運営すること
    ただし中国は満州に対し完全な主権を保持すること
を協定した。
しかし、この協定の締結には日ソ中立条約1941年(昭和16年)の関係もあり、ソヴィエトの条約締結はかなり難行したとも云われている。


ツェツィーリエンホーフ城(ポツダム会議の会場)
ツェツィーリエンホーフ城(ポツダム会議の会場)
[ツェーツィーリエンホーフ宮殿(ポツダム会議の会場)]
 ポツダムの町の北東に広がる新庭園の中に、ヨーロッパでは珍しい木骨造りの館が建っている。今では、歴史を物語るかのように建物の壁一面に蔦がからまり静かに眠っている。われわれにはポツダム会談の開かれた館といった方が通じやすいのかもしれない。

 宮殿の周囲には自然林が広がり、裏には静かな湖水もある。建物の内部はポツダム会談が開かれた部屋、そして米・英・ソ三国の首脳の控え室などが当時のままに保存されていた。日本を簡単に降伏には持ち込めないであろうこと、また同盟関係の不安定さなどにより、戦勝国である首脳の面々が重々しい雰囲気の中、沈痛な面もちで会議を進められた様子が、その場に立つことで幻影のように脳裏によみがえってくる。

 裏庭に出てみると、白い木蓮が今を盛りと咲き誇っているなど、歴史の流れが一層感慨深く思い起こされた。



公園
[サンスーシ公園とサンスーシ宮殿]
 町の南西部に290ヘクタールの広大な公園が広がっている。その公園の中に、フリードリヒ大王の夏の居城「サンスーシ宮殿」がある。(大王と建築家クノーベルスドルフの設計によるもので、1745〜57年にかけて建設。ドイツロココ様式を代表する建物。)宮殿内部は時間の都合で見学できなかったが、宮殿の庭、宮殿前の階段状に設けられたぶどう園、円池など実にすばらしい景観を見学することができた。このサンスーシ公園をじっくり見学してまわると1日は必要という。

 ポツダムの町は、大自然の中の都市といった感じで、実に緑が美しい。そんなポツダムの町を後にして、再びベルリンへと帰った。

 夜はドイツビールに酔いしれながら、今回の旅行の全行程を思い浮かべつつ快い疲れを味わった。


トップページ 4月23日 25日 26日 27日 28日 29日 30日 5月1日 雑感

世界旅トップページ