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8月 3日(月)
「リマ」(ペルーの首都)
8月 4日(火)
大統領官邸見学
8月 5日(水)
インカ族の歴史、文化の宝庫「クスコ」へ
8月 6日(木)
謎の空中都市「マチュピチュ」へ
8月 7日(金)
ナスカの地上絵見学
8月 8日(土)
サンパウロ市へ
8月 9日(日)
島根県人会交流センターの竣工式
8月10日(月)
リオデジャネイロへ

8月8日(土)サンパウロ市へ

サンパウロ市内 美しい東洋人街
サンパウロ市内 美しい東洋人街
 サンパウロまで6時間30分。深夜の機内旅行であった。

 早朝にもかかわらず、ここでもたくさんの県人会のみなさんが花束をもって空港まで出迎えてくれた。

 午後から、移民資料館、イビラプエラ公園等を見学した。

 たくさんの人種の集積地といわれる「サンパウロ市」。日本人の方も多く、何か親しみを感じる街である。また、街路、公園等に緑も多く、偶々訪伯したのが冬季であったが原色の美しい花をたくさん目にすることができた。イペー(黄色い花は国花となっている)、パパガイヨ(オウムの名−鳥)、ブーゲンビリヤ、馬の蹄等の珍しい植物がいたるところで見られる。これが春であればほんとうに美しい街であろうと思った。また、日本人街あり、高級住宅街ありで、何か日本の街によく似た感じがする。

 ここで「ブラジル」の歴史をみると、日本からブラジルへの移民が開始されたのは、今から約90年前(1908年)第1回笠戸丸により 781人が渡米した。現在まで約25万人が移住したといわれる。島根県からも 250世帯の人々が移民されている。

ブラジルの大朝市(魚屋さんコーナー)
ブラジルの大朝市(魚屋さんコーナー)
 国土の広いブラジルは、総面積 851万平方キロメートル 。日本国土の23倍、総人口は1億4615万人といわれている。北部はアマゾン川の流域で熱帯雨林に囲まれており、大部分がジャングル地帯。中央部の高原はセラードと呼ばれる潅木地帯、雨期と乾期がはっきりしているサバンナ気候である。この中部は、長らく不毛地帯であったが日本とブラジルが共同開発し今では農業で成果を上げつつある。南部は牧場、コーヒー、大豆、小麦畑という大農業地帯である。この中部と南部の中間にサンパウロ、リオデジャネイロ、ベロオリゾンテの工業地帯がある。

 日本人は、勤勉で大部分の方々が成功している。中には、政府要人、公務員、農業・企業人など移民二世〜三世で大変な活躍をされている。しかし、移民当時の状況を聞くと、筆舌につくせない苦労があったと思われる。日本から22,000km、南米の原始林の中、劣悪な環境の中に送り込まれ、帰ることも逃げ出すこともできない、全く毎日毎日が不安と恐怖の連続であったと思う。ただ成功することのみに一縷の望みを託し努力され今日の地位を築かれたことと思う。ただただ感涙するばかりである。(移民資料館を見学して)

平成7年正月12日宮中歌会始
皇后陛下御歌

移り住む 国の民とし老い給う 君らが歌うさくらさくらと

 ブラジルでも、国民の貧富差は大きく75%は低所得階層という。中流20%、上流階層はわずか5%、あるいはそれ以下といわれる。しかし、国民の気質は明るく人種の差別もない、皮膚の色や宗教による差別もなく、渾然一体となって築き上げられたユートピアである。農業、商業に携わる人々でもたいへんな富豪家がいて、農業の経営規模など日本の人に話しをしても理解してもらえないという。乳牛なら数千頭、養鶏なら数千から億の単位という。中には、四国全土に匹敵する土地をもっている人もいるという。だが、全体的には低所得階層が多く大学等への進学率は低い。進学する資力がないのである。しかし、数少いながら大学卒業者は、公務員、企業等種々な分野で要職に就き、将来も約束されているという。

 ブラジルも、最近は景気が悪く移民三世、四世等たくさんの若者が日本に出稼ぎに行くという。ブラジルの経済が強くなるためには、先ず日本の経済が早く元気になることであると言っていた。

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