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魅惑の大地「モロッコ」への旅

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11月30日(木)

カサブランカの街路樹
カサブランカの街路樹
今日から6日間をかけてモロッコ一周の旅に出る。

モロッコでガイドをしてくれるのは、イングリッシュガイド KAKI氏、日本語ガイド モリワケ氏(森分伸好氏)であった。

モリワケ氏は、17年前日本から海外青年協力隊員としてモロッコに渡り、現地人の女性と結婚、ワルザザードで生活していると云っていた。本業は、建築設計技士で、余暇に日本人観光客のガイドをやっていると云っていた。

街角で会話する婦人たち
街角で会話する婦人たち
今回の旅行は、幸というか不運というか、モロッコに入る2日前(11月27日)からモロッコ最大の宗教祭事「ラマダン」に入っていた。国民は、1カ月間日の出から日没まで一切の食物、水も口にできない厳しいイスラム教の祭事という。

カサブランカでの滞在は僅か半日である。できるだけ街の雰囲気を味わっておこうと、早目に朝食を済ませて街の散策に出かけた。フランスの保護領時代(1907年以降)に都市計画がなされ、急速に発展したと云われる。カサブランカの人口は257万人でモロッコ最大の都市=経済の中心の都市である。

街の建物は、白が基調となっている。カサブランカ=”白い家”といわれる所以である。(モロッコの総人口約276万人、首都はラバトである。)

昨日、カサブランカへの到着が遅かったため、今日はホテルを出発するのを少し遅くした。(1)国連広場、(2)モハメット5世広場(旧国連広場)、(3)ハイアット・リージェンシーホテル(映画「カサブランカ」の舞台となったホテル内のバー「カフェ・リック・アメリカ」を再現した部屋)、(4)ハッサン2世モスク、(5)海岸通り、高級住宅街のアルファーの丘などを見学して回った。アルファーの丘にはヨーロッパ会議(カサブランカ会議)のあったホテル(現在廃屋)もあった。

ハッサン2世モスク

モロッコ全土から34,000人の職人を総動員して、1986年から1993年まで8年の歳月を費やして完成させた。敷地面積9ヘクタール、ミレナット(尖塔)は高さ200mで世界最大のものである。時間の都合で見学できなかったが、モスクの地下1階は参拝客のために設けられたアブルーション(清めの泉)、回廊の地下には浴室、カフェ、神学校、図書館、博物館が併設されている。

建物全体に、ベージュにグリーンの美しい緻密な模様が施されているのが圧巻である。また、海、太陽、風をモチーフにしてデザインされたモスクで、遠く西方の海岸から眺めると大西洋岸に突出し一層壮大な感を抱かせる。

午後は、モロッコの農村風景を満喫しながら、アトラス山脈の北部にある古都マラケシュへと向った。

美しいハッサン2世モスク
美しいハッサン2世モスク。高さ200mの巨大なミナレット
  ハッサン2世モスクを遠望
ハッサン2世モスクを遠望

モロッコのおじさん
モロッコのおじさん
モロッコ四方山話

ガイドのモリワケさんは、モロッコ生活17年という。仕事の関係からモロッコ全土を歩いているのでいろいろな話を聞くことができた。その2〜3を紹介してみたい。

 物価
モロッコの1DH(デラハム)=日本円で約10円。
(コーヒー:5DHは安いと思ったが、ビール(小)350ml:30DH(ホテル、レストランでの価格)、ガソリン1リットル:8DHなどはこれらは案外高いと思った。)
生活費も、都市部と農村部では大きな開きがあるようだ。カサブランカのような大都市は非常に高い。でも月収10万円位の人は高給どりで、優雅な生活を楽しむことができる。ワルザザードのような田舎に行けば、3万円もあれば一家の生計は成り立つ。ちなみに、中級クラス教員の月収は日本円にして2万円ぐらいという。
そして、マイホームは(程度のほどはわからないが)150万円位で建てられる。

 学校
最近、政府が農村地帯にも学校建設を進めてきたので一応中学校までは義務教育制をとっている。(小6、中3、高3、大4は日本と同じ)そして、教育は厳しく、落第2回までは許されるが、3回目からは駄目。
公立大学校10校あり、授業料は無料(専門図書は自己負担)。民間大学は1校、授業料が大変に高い。

 結婚
一夫多妻制(4人まで)が許されている。但し、日本の男性が結婚する場合、出身国が一夫一婦制なので日本の制度に従わなければならない。
おもしろいことに、成人は剃毛をしなければならない。また男子は3才ぐらいのときに割礼を行うことになっている。女性の割礼はしないといっていた。
モロッコの女性は、日本の男性に魅力を抱いており、結婚できたらと思っているという。年齢差など問題ないといっていた。

 農地
バスは、次第に農村地帯に入って行った。山を切り拓いた広大な農地が展開してくる。農地は個人所有で、1人で50〜200ヘクタールといっていた。見たところ耕土が非常に浅く、その下は岩盤かガレキのようである。耕転が大変であろうと思った。トラクターもあるといっていたが、やはり主流はロバや牛を使って耕すのだろう。

大西洋岸の裏側(アトラス山脈の南側)の地方は乾地であり、わずかの降雨量を頼りの農業である。したがって、作目も自ずから大きく制約されるであろうと思った。

また、農村の中にはときどき「聖者の墓」が見かけられた。集落単位ぐらいにあるようだ。住民たちは”願いごとが叶う”として信仰の中心になっている。日本の農村と似たような風習である。

沿道では、ときどき農民が”ニワトリ”を両手に持って、通りがかりのドライバーに売りつけていた。”ラマダンの期間中に殺生な”と思ったが、ラマダンの期間中でも夜は自由で、栄養価の高い食事を摂らなければならない。動物性蛋白質の補給源のようだ。

バスは、セクタ(偉大な内務大臣の出身地で、町の整備に大きな功績を残した偉人)の町、デングリルの町(ナサの航空基地と軍隊の基地のある町)を通過。目的のマラケシュの街に到着したのは夕陽の沈むころであった。

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