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シルクロード魅力探訪の旅

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8月23日(月)

早朝、ウルムチを後にし西安へと向かった。ウルムチ空港を8時55分発の予定が、空港のトラブルで大幅に遅れ10時フライトとなった。しかし、天候に恵まれ実に快適な空の旅であった。

ちょうど右窓側の席だったので、万年雪をいただく天山山脈を見下ろすことができ、その美しい雄姿に何度もカメラのシャッターを切った。また、ウルムチ空港周辺は整然と区画された農地が広がる平野であった。しばらくすると、クルクダグ山脈であろうか、真茶色の台地の上を東南に向かって飛行を続けていった。

西安が近づくにしたがって台地は緑色に変わっていった。小さな湖も見えた。青海湖にしてはあまりにも小さすぎる、たぶん「ハル湖」であろうかと思った。農業用ダムも見えてきた。その用水域であろうか、数百ヘクタールに及ぶ農地が広がっている。圃場の一区画が非常に大きく、碁盤の目のように農道が走っている。そこには、農業用水の管渠が敷設されているのであろうか?−中国における、近代農業の展開を垣間みるような気がした。

 西安 
西安空港に到着したのは出発の遅れにより13時となった。ただちに市内見学に向かった。空港から市内までは6車線の高速道路で結ばれている。広大な農地の中を、車は西安へと向かって走った。あちこちに古墳の土盛りが見られるのも、古都西安を表徴しているような風景であった。

農家も、レンガ造りの1階建ては中農、2階建ての白壁造りは富豪農家、昔ながらの土塀農家は貧農と一見して区別できるとのことである。こんな広い農地にも、土地の上下の差があるようで、農家はあちこちと入り乱れて耕作しているようである。

西安城の西門
西安城の西門
西安城に到着すると、市内見学グループと秦始皇兵馬俑博物館見学グループとに分かれた。私たちは後者のグループに入った。

ここで「西安」の概略を調べてみた。
西安は、北に渭河、南に秦嶺山脈を望み、72の帝王陵が点在する関中平原の中央に位置する3000年の歴史を有する古都である。

また西安は、漢の武帝が西方へ使者を送り、そして玄奘三蔵がインドへと旅立ち、玄宗と楊貴妃が愛を語った場所、シルクロードの出発点、そして日本からは空海や阿倍仲麻呂など多くの遣唐使や留学生が訪れたところである。

西安の市街地人口は280万人(田舎を含めると618万人)である。最近、中国も大きく変化してきており、社会の仕組みも「中国の三金」ともいわれる、保険・年金・住宅などの社会保険制度が確立されつつある。とはいっても、これは公務員の場合で、民間会社にまでは及んでいないようだ。

さらに、自由経済社会への移行が急速に進み、サービス産業等の経営態度が一変してきている。まさに“売らんかな”の時代である。だから従業員たちはサービス精神が旺盛で旅行をしていても実に楽しい。これまで国営で行っていたものは最近ほとんど姿を消している。


秦始皇兵馬俑博物館
市街地から、東方へ約30kmあまり、昔の絹織物工場のあった街区を左右に見ながら博物館へのと向かった。
兵馬俑博物館第3号館入口向こうが2号館
兵馬俑博物館第3号館入口向こうが2号館

兵馬俑の坑を覆う巨大な体育館のような建物(横60m、奥行き200m)が造られており、その中に、発掘された俑坑そのままがすっぽり覆われており、周囲を回って見学できるようになっている。

全部発掘すると6,000体にも達するという。膨大な俑(人形)は、それぞれ服装、表情が異なっている(身長178〜187センチ)。説明によると、実物の兵士をモデルに製作されたものらしい。胴体をヒモ造りにより作り上げ、焼成着色、頭部は別に作成焼成し、完成後に頭部を胴体に差し込む形で完成させている。(俑は、実物より若干大きく作ってあるといい、胴体と頭部は切り離せるようになっている。)言い伝えによると、築造に当った職人は、完成後俑坑の秘密を守るため全て殺されたとのことである。

俑坑発見の経過
1974年楊志発さんが井戸を掘る際に一部が発見されたのをきっかけに、調査が開始された。
1976年 1号坑の発掘が完了。
1号坑は東西230m、南北72m、広さ1万4,260u 。俑は、戦車と馬、鎧甲に身を固め、弓矢、剣、矛を持っている。
1976年4月2号坑の発掘完了。
1,000体以上の兵馬俑と戦車89基がある。
1980年6月 3号坑を公開。
3号坑は、兵馬俑と衛士俑で、いわゆる軍の司令部(儀式俑)を示すものである。入り口には、1980年に発掘された4頭の馬が引く銅馬車(実物の2分の1大で、高車と安車のレプリカ)が展示されている。


秦の始皇帝陵
兵馬俑坑の東2kmほどのところにある。平坦な農地の中にある墳丘墓である。この墓は、始皇帝が生前に建設したもので、当時70万人の人々を動員して築造したという。地下には水銀を用いた川や海が造られ、また墓に近づく者があれば弓矢で射殺するという仕組みになっていた。そして、墓の中には法燈があり、これが永久に消えないような装置になっていたという。

しかし、このような厳重な、そして堅固にして豪華な造りであったが、建設後10年も経たないうちに、項羽の軍によって徹底的にあばかれてしまったという。

*始皇帝
B.C.259〜210年の中国古代帝国の建設者で、在位はB.C.247〜210年の37年間であった。

数百年におよぶ列国間の抗争に終止符を打ち、中国最初の統一を図った。郡県制を採用し、全国を36郡(後に若干増加)とし、その下に県を設けた。官吏は皇帝の任命とし、随時中央と地方の異動(交替)を行った。

度量衡制度、貨幣制度、文字の簡略化など中央集権のための各種改革を行った。国内の統一が一段落すると、南北に外征を企て(B.C.215〜214年)、北はオルドス・後套地方、南はベトナム北部まで郡県を拡大していった。そして、外国から の侵攻を防ぐため、秦・趙・燕の作った長城を、西は甘粛省岷県から、内蒙古自治区の南部を経て、東は遼寧省の遼陽に至るまで築造した。

このほか、皇帝の権威を誇示するため、壮麗な「阿房宮」を建立、また各地に公徳碑を建立させた。

このように、中国専制政治の祖型をつくり、そして諸々の大事業をあまりにも過激、急速に実現したため人民の不満を買うこととなった。

皇帝の死後(B.C.207年)間もなく、秦は崩壊していった。統一帝国が成立してからわずか15年という短い期間であった。

「始皇帝」という名前は、中国にはじめて「皇帝」という地位名称を用いたことから名づけられた。


西安城の四隅にある角楼の一つ
西安城の四隅にある角楼の一つ
西安城壁と鐘楼 
西安の町に帰ったのは夕暮れに近かった。城壁と鐘楼を車の中からでも見学しようと試みたが、あまりの大きさにほんの一部分しか見ることができなかった。

西安の城壁は、明時代の1374〜1378年に建設されたものである。唐の長安城にこそ及ばないが、高さ12m、壁の幅は下部で18m、上部は15m、東西約 3.5km、南北3km、一周12kmの壮大なものである。

昔は、土塁であったが損傷が激しく明時代になって外側をレンガで化粧し直しされている。四周を幅20m、深さ10mあまりの外濠がある。東門(長楽門)、西門(安定門)、南門(明徳門)、北門(安遠門)などがあり、城門の四隅には城楼が築かれている。
鐘楼の夜景
鐘楼の夜景

鐘楼は、町の中心にあって西安のシンボルとなっている。高さ8.6mの土台の上に3層の木造の楼閣が建っている。地上から最上部までは38mで、内部は2層構造になっている。特に、釘を1本も使わない建築工法−1本柱で造られていることでも有名である。

創建は、1384年(明の時代)である。

唐の長安城は、西安城を大きく包み込むようになっていたようで、たいへんな面積のものであった。長安城の中に大雁塔、小雁塔が立っている。



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