長春・ハルピンを訪ねて

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7月26日(月)
 長春に別れを告げる日が来た。わずか4日間の滞在期間だったので、吉林省と黒龍江省のほんの一部分しか見学することができなかった。しかし、滞在期間中、吉林省当局の高軍さんに懇切丁寧に案内していただいた。この高軍さんは、昨年国際交流員として島根県庁に勤務されていた方である。中国に帰られてからも両県の交流促進のためにたいへんな活躍をされている。

 こうして、たくさんの思い出をいっぱいに長春国際空港に向かった。出雲空港に着いたのは、午後2時30分であった。


◆◆感想◆◆
 民間訪問団48名の中には、かつて満州時代に現地で徴兵され、たいへんな苦労を積み重ねてこられた方々もおられた。「満州」というと、私たちの少年時代を思い出す。満蒙開拓義勇軍という美名のもとに未だ成年にも達しない先輩たちが出征していったのである。終戦後、幸いにも生き延びて生還された方、また不幸にして異国の露と消えられた方など、さまざまな思いである。

 戦争という不幸な事件の中で、日本軍は中国の人々にたいへんな苦しみと犠牲を与えたことも忘れてはならないと思った。このことが「偽皇宮陳列館」(長春市)、「聖索菲亜教堂」(ハルピン市)などに写真展示されている。中国の人々にとっては日本人が行った凶状を容易に拭い去ることができないのだとも思った。
(  今回の旅行で見学できなかった、旧日本軍特殊部隊(満州第731部隊)の罪状を公開している陳列館(ハルピン)を見学し得なかったことは残念であった。 )

 しかし、こんな戦時体制中でも日本が理想の満州国を建設しようとしていたことは、厳然たる事実でもある。そのことが満鉄の建設という大事業、また長春市、ハルピン市などの都市の基盤整備に見ることができる。私たちは、このことが中国の人々に対する唯一の救いとも感じ得たところである。

 また、満州国時代に中国人が悪の根源とも思っていたであろう各種の機関(建物)が今でもほとんど残っており、中国の新しい国や省の機関として活用されているのもひとつの喜びであったかもしれない。

 街の中の様子も最近は大きく変貌している。当時、戦時体制下では防空のためにすべての建物が4階までに制限され、さらに、各機関が地下壕で連結されていた。道路の下にも防空壕が作られ、非常時に備えられていたようである。

 しかし、今では街中に10階以上のビルが林立し、平和な近代都市へ向って着実に前進していることは喜ばしいかぎりである。

ここで、旧満州国の誕生、また日本と中国とが全面戦争に至った経過について、概略をたどってみる。
1927年(昭和2年)田中義一内閣時代、中国から満州を切り離す計画を推し進める。
1931年(昭和6年) 9月18日夜10時頃、日本の関東軍は自から南満州鉄道の柳条湖区間の線路を爆破し、中国東北部の侵略を開始した。
1932年(昭和7年) 9月15日  日本の植民地として満州国を国会で承認。
このことについて、日本国内でも、労働者、農民、兵士などからは、「帝国主義による戦争反対=中国から手を引け」との声があった。また中国においても、1931年9月21日に「日本の侵略」を国連に提訴している。
(松江市・古藤正福先生の著述から)
1936年(昭和11年)西安事件発生
1937年(昭和12年)7月7日  蘆構橋事件(日中戦争の発端)
1937年(昭和12年)末までに、日本軍が華北鉄道沿線の主要都市を占領。華中でも上海、南京を陥れる。
1938年(昭和13年)10月  広州、武漢を攻略
1941年(昭和16年)12月8日  太平洋戦争突入


日本の関東軍が中国東北部の侵略を開始した『9.18事変博物館』(古藤正福先生提供)

 一方、農村の状況をみると長春からハルピンまでは、中国東北地方最大の平野で穀倉地帯といわれる。大地は見渡すかぎりの「とうもろこし畑」である。子どもの頃、満州では“とうもろこし畑の中に陽が沈む”と聞いていたが、まさにその言葉通りだと思った。また、こんな広大な農地をどうやって耕すのだろうかとも思った。私たちの乗った列車は特急列車であったがハルピン市までの間に数カ所に停車した。駅に到着すると、構内にはたくさんの「とうもろこし」貯蔵庫が林立している。

農業の集落(田舎の駅近く)
農業の集落(田舎の駅近く)
 点在する農家群は、赤いレンガ造りで決して住環境は良いとはいえないようであった。集落内の道路も、もう少し何とかならないものかとも思った。

 昔、満州にいた方々の話によると、冬になるとトイレが凍結し、(− 糞尿処理のいちばんいい時期 −)ツルハシで便所を掘り起こして車で畑に運び、土をかけておく。夏場になると発酵し、絶好の肥料になるという。

 また、中国東北地方は随分ポプラの木が多いところである。春になるとポプラの綿毛をつけたような種子が風に飛ばされて行く、まるで雪が降るような景色だという。−植物アレルギーの人などにとってはやっかいな植物のようでもある。

 高軍さんは、説明の中で「楊柳」(やんりゅう)について、「楊」はポプラで、「柳」はやなぎと言っておられた。しかし私たちは、「楊」は葉の幅の広い川柳を言い、「柳」はしだれ柳ではないかと思った.....。でも、中国東北地方では、ポプラも柳の仲間なのかもしれない。

 また、長春市、ハルピン市を歩いてみて感じたことは、意外に民族服を着ている人を見かけなかった。特に若い女性の服装はおしゃれで、日本の若い人と何ら変わらない。靴も、最近流行の底厚のサンダルを履いている。そしてスタイルがとても美しい。“流行は電波によって伝わっていく”と言うが、その影響をいちばん早く受け入れるのが若い女性たちなのかもしれない。NHK、CNN、韓国、台湾、香港とあらゆるテレビ放送が入っているのだから。そして最近の中国女性は気位が高く、青年たちもかなり努力しないと結婚してくれないようである。

 わずか数日の滞在期間でもって、中国東北地方を語るのはあまりにも失礼なことかもしれない。でも、高軍さんの熱心な案内と、山陰中央トラベルのみなさんのお力添えで中国東北、特に旧満州国の中心部分を概略脳裏に焼きつけることができたように思っている。関係のみなさんに深く感謝を申しあげたい。

吉林省と島根県
 島根県は、1994年中国吉林省と友好提携を結び、文化、経済の交流を行ってきた。今年が友好提携を結んで5周年を迎えることから、これを記念して文芸交流を行うことになったものである。また、来春浜田市に開学する県立大学に留学生を受けることを約し、そして今回吉林省に対して消防自動車も贈呈した。

 松江市においても、今年が市制施行 110周年の記念すべき年にあたり、吉林省の吉林市と友好都市の締結をめざしている。

 吉林市では現在、「日中友好会館」が建設中であり今秋にも完成する。吉林市へは私たち民間訪問団は訪問できなかったが、ガイドブックをみると松江市に関係の深い名前が見受けられる。松花江に架かる「松江大橋」、松花江沿いにある約10kmに及ぶ大きな都市計画道路「松江路」の名称がある。ちなみに吉林市の人口は 410万人である。

 松江商工会議所においても、民間企業等による経済交流の検討が進められている。

 以上のように、県市および民間団体が挙って友好を深めていこうとしている。今後、両地区県・省の関係が、日本と中国の友好発展の端緒になることを願って止まない。

1999年7月  
長岡 榮 記

※ 参考文献
・(株)ダイヤモンドビッグ社発行「地球の歩き方」(大連と中国東北地方)を参考とした。


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