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7月26日(月) こうして、たくさんの思い出をいっぱいに長春国際空港に向かった。出雲空港に着いたのは、午後2時30分であった。
◆◆感想◆◆ 戦争という不幸な事件の中で、日本軍は中国の人々にたいへんな苦しみと犠牲を与えたことも忘れてはならないと思った。このことが「偽皇宮陳列館」(長春市)、「聖索菲亜教堂」(ハルピン市)などに写真展示されている。中国の人々にとっては日本人が行った凶状を容易に拭い去ることができないのだとも思った。
しかし、こんな戦時体制中でも日本が理想の満州国を建設しようとしていたことは、厳然たる事実でもある。そのことが満鉄の建設という大事業、また長春市、ハルピン市などの都市の基盤整備に見ることができる。私たちは、このことが中国の人々に対する唯一の救いとも感じ得たところである。 また、満州国時代に中国人が悪の根源とも思っていたであろう各種の機関(建物)が今でもほとんど残っており、中国の新しい国や省の機関として活用されているのもひとつの喜びであったかもしれない。 街の中の様子も最近は大きく変貌している。当時、戦時体制下では防空のためにすべての建物が4階までに制限され、さらに、各機関が地下壕で連結されていた。道路の下にも防空壕が作られ、非常時に備えられていたようである。 しかし、今では街中に10階以上のビルが林立し、平和な近代都市へ向って着実に前進していることは喜ばしいかぎりである。 ここで、旧満州国の誕生、また日本と中国とが全面戦争に至った経過について、概略をたどってみる。
一方、農村の状況をみると長春からハルピンまでは、中国東北地方最大の平野で穀倉地帯といわれる。大地は見渡すかぎりの「とうもろこし畑」である。子どもの頃、満州では“とうもろこし畑の中に陽が沈む”と聞いていたが、まさにその言葉通りだと思った。また、こんな広大な農地をどうやって耕すのだろうかとも思った。私たちの乗った列車は特急列車であったがハルピン市までの間に数カ所に停車した。駅に到着すると、構内にはたくさんの「とうもろこし」貯蔵庫が林立している。
昔、満州にいた方々の話によると、冬になるとトイレが凍結し、(− 糞尿処理のいちばんいい時期 −)ツルハシで便所を掘り起こして車で畑に運び、土をかけておく。夏場になると発酵し、絶好の肥料になるという。 また、中国東北地方は随分ポプラの木が多いところである。春になるとポプラの綿毛をつけたような種子が風に飛ばされて行く、まるで雪が降るような景色だという。−植物アレルギーの人などにとってはやっかいな植物のようでもある。 高軍さんは、説明の中で「楊柳」(やんりゅう)について、「楊」はポプラで、「柳」はやなぎと言っておられた。しかし私たちは、「楊」は葉の幅の広い川柳を言い、「柳」はしだれ柳ではないかと思った.....。でも、中国東北地方では、ポプラも柳の仲間なのかもしれない。 また、長春市、ハルピン市を歩いてみて感じたことは、意外に民族服を着ている人を見かけなかった。特に若い女性の服装はおしゃれで、日本の若い人と何ら変わらない。靴も、最近流行の底厚のサンダルを履いている。そしてスタイルがとても美しい。“流行は電波によって伝わっていく”と言うが、その影響をいちばん早く受け入れるのが若い女性たちなのかもしれない。NHK、CNN、韓国、台湾、香港とあらゆるテレビ放送が入っているのだから。そして最近の中国女性は気位が高く、青年たちもかなり努力しないと結婚してくれないようである。 わずか数日の滞在期間でもって、中国東北地方を語るのはあまりにも失礼なことかもしれない。でも、高軍さんの熱心な案内と、山陰中央トラベルのみなさんのお力添えで中国東北、特に旧満州国の中心部分を概略脳裏に焼きつけることができたように思っている。関係のみなさんに深く感謝を申しあげたい。
1999年7月
長岡 榮 記
※ 参考文献
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