〔無錫〕 第3日
無錫は、上海の西方120kmに位置する。市内を京杭大運河が流れ南に太湖を臨む。人口 110万人の大都市である。
歴史は古く、紀元前1244年周の泰王の長男・泰伯が句呉国を開き、その子孫闔閭が紀元前 514年に蘇州に遷都するまでの間『都』とされていたところである。街の石畳(亀ト)道路も美しい。昔は、錫山から錫が産出されていたので“有錫”と呼ばれていたのが、錫が産出されなくなってからは“無錫”と改名された。
無錫も、蘇州とともに“魚米之郷”と呼ばれるほど豊富な農産物の産地である。
〔太湖遊覧〕
太湖の乗船場前の公園(蓮池) |
太湖の遊覧船 |
有名な太湖遊覧へと向かった。太湖の面積は2,213km2というから琵琶湖の 3.2倍の広さがある。しかし、水深は浅く平均して3m程度という。漁獲でも有名である。龍で飾った遊覧船で約1時間ほど遊覧して回った。龍船は、昔は王様の乗る船とされていた。「呉越同舟」の諺もここから生まれたものである。
〔錫恵公園〕
市街地の西、京杭大運河を渡ったところにある。
園内には、中国の造園技術の粋を集めた庭園「寄暢園」がある。太湖石(太湖の湖底から掘り出した石)をふんだんに使った庭園と、園池に影を落とすたくさんの楼閣の佇まいが美しい。また、少し山手に上ったところに“唐の茶神”陸羽が天下第二泉と名付けた名泉がある。ここからの眺望もすばらしい。
無錫の庭園は、蘇州の庭園とはやや趣を異にしていることは前述のとおりである。
〔蘇州・無錫から上海へ〕(専用バスにて)
寄暢園内の回廊 |
午前中、太湖遊覧と錫恵公園を観光した後、今度は専用バスで上海に向かった。
蘇州に入るときは夜だったので周囲の景色はまったくわからなかったが、帰りは昼間のバス旅行であり、周囲の景色がよくわかった。高速道路沿線には広大な農地、クリーク、農家の建物の様子(外観)などがよくわかった。
錫恵公園内の大同殿といちょうの木 |
江南地方は、中国全土の食糧をまかない得る力があるというだけあって、見渡すかぎり農地が広がっている。農家は、2〜3階建ての窓の少ない、同じような造りである。
また、あちこちでクリークが、ゴミの埋め立て場所と化しているところがある。クリークが何の役目なのかを考えるとちょっと怪訝に感じた。
上海に到着したのは午後の早い時間であった。早速、外灘(バンド)見学に向かった。
〔外灘〕(バンド)
外灘公園と旧租界の街並 |
外灘は、黄浦江、長江との合流地点に近い。この黄浦江に面して、かつての租界時代の立派なビルが立ち並んでいる。
北の一角に黄浦公園がある。公園には「上海市人民記念英雄塔」が勢いよく立っている。さらに、公園と向こう岸をつなぎ止めるように、揚浦大橋がある。この揚浦大橋は1993年に完成しており、全長 1,178m(橋脚間の長さ 602m)という世界一の斜長橋という。向こう岸には「東方明珠テレビ塔」(1993年完成)がある。テレビ塔の高さ 460m、上部と下部に2つの球型ドームがついている。このドームがもう1つあれば、今流行の「だんご三兄弟」になるのかと……。
〔上海中医薬大学〕(中国葯標本研究所)
ここでは、漢方専門医の先生が観光客の健康診断に応じてくれる。また、漢方薬も調合販売してくれる。
〔上海慶卿企業(有)〕(玉石加工場)
中国特産の工芸品販売場で、商品の購入ができる。
〔上海雑技団〕
夜は、上海雑技団の美技を時間の経つのも忘れて見学した
上海市内をあちこち専用バスで観光していると、まったくの方向オンチになってしまう。上海の市街地は道路が東西に碁盤の目のように整備されているからわかりやすいといわれているが……。大きな通り、大きな施設(建物)のところに出てやっと目標がわかってくる。中山通り、北京通り、南京通り、延安通りなどが特に有名な大きい通りのようである。「中山通り」は孫文先生が日本に渡っているときの名前「中山」に因んでおり、孫文先生の遺徳を偲んでこのように命名されたもののようだ。
〔上海〕 第3〜4日
上海は、省と同格の都市「直轄市」である。面積 6,341km2 、人口 1,334万人(内 732万人が市区に集中)。市区部=直轄区(日本の大都市の区制にあたる?)、直轄県(日本の都・府の中の市に相当する?)で、それぞれ10区に分かれているようである。
なお、中央の「直轄市」は昔は北京、上海、天津の3市であったが最近これに重慶が加わり4市になっている。
上海の歴史をみると、13世紀末頃までは小さな漁村であったという。その後、紡績工業の発達によって、16世紀には貿易都市として大きく発展した。現在では、中国で最も豊かな、そして最も国際的な都市となってきている。
その間には、アヘン戦争(1839〜42年)以来 100年あまりの間は外国勢力の配下となり、各地に租界地がおかれる時代もあった。上海が開放されたのは1949年である。
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