暴力団ミニ講座

39) 五代目会津小鉄会
五代目会津小鉄会は、京都市下京区に主たる事務所を置く広域暴力団で、その勢力範囲は1道1府1県となっており、平成13年6月末現在における構成員(組員)は約900名、準構成員(準組員)は約300名に達するといわれています。

五代目会津小鉄会は、幕末から明治にかけて名を馳せた侠客、「会津小鉄」こと上坂仙吉の流れを汲む暴力団です。

会津小鉄の来歴については諸説があり一定しないところがありますが、生れは弘化2年(1845年)といわれ、生国不明、幼時は母親の再婚先であった大阪四天王寺で育ち、11歳の時に家出して江戸に下り渡り中間となり、17歳で再び関西に戻って来た時には、堂々たる博奕打となっていたようです。

文久2年(1862年)、会津藩主、松平容保が京都守護職として上洛、京都警備の任に就いた頃、会津屋敷中間部屋に入り込み、中間として働く一方、会津印の法被を着た賭場荒しの博奕打として畏れられ、また、短躯であったことから、何時しか会津の小鉄の異名をとるようになったといわれています。

小鉄は、顔から全身にかけて70余ヶ所の刀傷があり、左手は親指と人差し指しかなかったようです。

その後、慶応4年(1868年)に至り、博徒上坂音吉親分の盃をもらって上坂仙吉と名乗り、京都白川に一家を構えて勢力を張り、明治16年(1883年)の明治政府による「博徒狩り」で捕えられ、翌17年に出所した、その出所祝には7,500人の子分が集まったとさえいわれています。

結局、小鉄は、明治19年(1886年)41歳で病没していますが、その跡目は、実子、上坂卯之松が継ぎ、二代目会津小鉄を名乗りましたが、昭和10年に死去し、会津小鉄の名跡は、ここに途絶えてしまいました。

この会津小鉄の名跡を復活させたのが、図越利一で、昭和50年3月のことです。

図越利一は、昭和16年、京都に本拠を置き、会津小鉄の流れを汲む、博徒中島会初代会長、中島源之助の盃を受けその子分となり、中島会の若頭として中島会を切り盛りするようになりましたが、昭和35年、中島源之助が死去したため、その跡目を継ぎ二代目中島会会長となりました。

そうして、次第に頭角を現した図越利一は、京都に蟠踞する暴力団の一本化を図り、ついに中島連合会を発足させ、自らその会長となりましたが、周囲のよ望を担い、前記のとおり、昭和50年3月に会津小鉄の名跡を復活させ、代紋を改め、三代目会津小鉄会として再出発し、その総裁として、現在の会津小鉄会の基礎を確立しました。

その後の会津小鉄会は、昭和61年7月、三代目会津小鉄会、総裁代行兼理事長であった高山登久太郎こと姜外秀が会長となり、団体名を四代目会津小鉄会としましたが、更に、平成元年10月四代目会津小鉄に改称しています。また、平成9年2月に至り、高山登久太郎の隠退に伴い、図越利一の実子、図越利次が会を継承し、五代目会津小鉄とし、平成10年12月からは、五代目会津小鉄会と名称変更して、現在に至っています。

なお、会津小鉄の名跡を復活させた図越利一は、高山登久太郎に四代目会長を譲った後も、隠然たる力を持ち、暴力団社会に君臨していましたが、本年7月に死亡しています。

また、五代目会津小鉄会は、現在、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律による指定暴力団の指定を受けていますが、その間、指定暴力団への指定をめぐり異議をとなえて公訴を提起しましたが、敗訴しています。


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