瀬田漕艇クラブ機関紙投稿'97.10
なみはや国体 成男ダブルスカル優勝おめでとう
松江ローイングクラブ 松本健治
- はじめに
手前味噌ながら、97年なみはや国体で優勝させていただきましたので、今回は国体特集として書かせて頂きたいと思います。
- 勝敗の分析
めでたく優勝しましたが、勝負というのは選手が努力すれば勝てるというものではありません。いろいろな要因が、重なって結果が出ます。97年は特にそう感じました。関係者の皆さんには、現地でもたくさん応援していただきました。ありがとうございました。
- いやな予感
2月の終わり、朝日レガッタの申込みが迫り、今年のクルー編成案が出ました。例年、もめてゴタゴタしますが、なぜか今年はあっさり決まりました。
焦点は2×の組合せです。過去にこの人と組んだパートナーは、なぜか、競技生活を離れたり、人生を踏み外したり、その後、まともな生活を送っていません。誰がご指名を受けるか、みんなビクビクでした。まだまだボートを漕ぎたい私は、いやな予感がしました。
- まじめなはなし
当然、3月からたくさん練習をしました。(させられた?)たぶん私の競技生活でもっとも練習した気がします。「どんな条件でも漕げるように。」ということで、早朝に夜、雨や台風、波や風、強烈な逆風、逆流の中でも、乗艇しました。(私は雨やコンディションの悪い時は、神様が「今日は練習を休みなさい。」というお告げだと思って迷わず休むほうだった。しかし、おかげで福山市でのブロック予選はすごいコンディションであったが、へっちゃらだった。)
お互いの漕歴が長く、漕ぎ方も練習方法も異なるので、何事も合わせることに苦労しました。35才と32才では、変えようと思っても、長年染みついたものはなかなか直りません。カラダも言うことはきかないし‥‥。乗りはじめて、1ヶ月ぐらいして、思うように艇も走らず、お互いイライラすることもあり、私はスランプに陥りました。もともとあまり悩むほうではなく、そんなに無理をしたわけではありませんが、季節の変わりめもあって体調をくずしました。
そういうわけで、テクニックは、基本的なことだけ気をつけて、あとはお互いが気持ち良く漕げるように心がけました。
朝日レガッタは、このペアの初レースで、自信なく出場しましたが、思いがけず良い成績で驚きました。(2位)しかし、国体のビデオを見ても、2人の漕ぎ方は相変わらず違います。華麗さがなく、われながら、なぜ速いのかよくわかりません。
- わたしの一日
96年まで、朝練もしていましたが、夜の練習がきついので、97年はゆっくり寝ることにしました。
2才の娘とポンキッキを見ながら、朝ごはんを食べて(子供は楽しい。)会社に行きます。アパートから2qを自転車で飛ばします。仕事は普通、5時に帰れます。(忙しくても無理に帰る。)家に帰るとすぐに夕食を(娘と)とります。練習前に食べるのは良くないと思いますが、わが家の平和と秩序を守るために食べてしまいます。
あまり食べ過ぎるとゲロしてしまうので、軽くにしておきます。(腹がはちきれるくらい満腹食べたい。) 練習は矢地氏が艇庫に来られるのが 18:30なので、水上に出るのは 19:00頃になりますから、まあ大丈夫です。でも、半年間つづけていたら7sくらいやせました。(引き締まった。)
アパートから艇庫まで約2qを自転車で行きます。練習は真っ暗な水面を 21:00頃まで漕ぎます。他にクルーがいることもありますが、ほとんどぼくらだけ、この水域にポツンといることが多いです。終わって家に帰ると、みんな(娘と嫁)寝てしまっていることもあり、お父さんはその方が寂しいです。
わが家は、食後のおやつに季節の果物(いちご、スイカ、メロン、ぶどう、なしなど)を食べることになっていて、欲しがる娘に「お父さんが帰ってきてから。」と娘を寝かさず待たせておく健気な嫁でした。(寝る前に食べるのも良くないと思うのだが、この非常事態では仕方がない。)
- 練習内容
国体を想定して、エンパッハの艇に乗らず、ずっと桑野造船の艇で練習しました。当初は、感触の違いにとまどりました。新型のスムーシーは採用しませんでした。(特に理由なし)
練習は、低いレートで高い強度のパドルによるロング漕と、矢地氏の好きな、500m、800mがおもでした。しかし、出発直前2日間は、国体はスピードレースになりそうな予感がして、短漕のインターバルで、スピード練習をしました。ペースコーチの表示は 1'28"〜 1'35"、レートは35〜38。果たして、予感通り台風の追い風、雨後の順流の中、レースはおこなわれました。
同じチームの4+が練習する時は、常に並べて練習しました。(寂しいから?)並べていると、ついつい本気になるご老体クルーには、良い練習相手でした。たまに負けてあげれば、4+も自信がついただろうにと思いますが、とにかく勝ちたがるご老公は、最後までご満悦になっていました。4+との競争により、練習内容の密度が一気にあがり、さらに2×の艇速がつきました。
- さらに幸運
逆風でも悪くはありませんが、整調のフライアップが顕著になるところがありました。どちらかと言えば、順風が得意で好きなご老体クルーでした。特に3分少々の速い時間に終わる今回のような条件は、ウルトラマンにとって最も好んだ条件です。
予選は最高タイムを狙いました。風や条件も良く、1番を取れました。そのため、準決勝の組合せ・時間に恵まれました。準決勝は、後半に追い込まずに済みました。
台風が来て、日程が大幅に変更になり、1日2レースはご老体クルーには厳しいです。しかし、レース間隔は3時間とれて、他の組では1時間40分のところもありました。
決勝のレーン抽選は、私が4レーンを引いてしまい、その日最も不利なレーンでした。最後の不運だけは、実力で振り払うことができました。
- レース状況
スタートから飛び出して、そのままいきます。特にセトルダウンなどせずに、いけるところまで、ガンガンいく作戦です。順風で疲れる間もなく、500mになりました。だいたい、2レース目はボロボロになっていますが、この日はなぜか元気一杯でした。
相手も離れず、700mから「行くしかない。」と上げました。850mからスパートを入れてなんとか逃げきりました。朝日レガッタ、中国ブロックとラストで刺され負けていたので、中国ブロック直後からラストスパートの練習をしました。最後になって、厳しいレースとなりましたが思った以上にうまくできました。
- その他
宿舎の島根県選手団は、相変わらず毎夜宴会でした。とても、国体に来ている雰囲気ではなく、他県からひんしゅくを買っているのではなかろうか。
97年は、実は神奈川の社会人大会でKFに優勝しました。1回も練習していないのに、相手にも恵まれ、勝ってしまいました。自慢するにはなんだか恥ずかしいような気がしていますが、全日本の優勝には変わりないのでうれしいです。とても、ついていた1年でした。(まだ、シーズンは終わってないものの、とりあえずこの生活から開放されて家族一同うれしい。)
- ある日
国体の10間前。「今日は500mを12本すーか。」(エッー。勘弁してよ。ボク)反論などしてもしょうがないので、無言で乗艇する。少しアップが足りないカナーと感じながら、SR32〜35で500mを漕ぎはじめる。3本目。なんだか辛い。4本目。みるみる艇速が落ちてくる。「水中キープ!」の声に無理して漕ぐ。「ウッ」とこみ上げてくるものがある。呼吸もできない。5本目。給水するが、胃が受け付けない。唇が異常に乾いている。明らかに、軽い脱水症状になった。「先生。今日は厳しいですぜ。」「まあ、がんばりましょう。」(チクショー)6本目。カラダが動かなくなる。7本目。突然「イタッ。腰が砕けた。今日はやめましょう。」[バウ]
この日、1日にして調子を崩す。このあと、バウは2日間お休み。艇速をとり戻すのに1週間かかった。あな、恐ろしや。みなさん気をつけましょう。
瀬田漕艇クラブ機関紙投稿'97.10
松 本 家 だ よ り
松本絹子
「くっそー。」「あの時もう少しがんばっていれば‥‥。」これは県外の試合から帰った時の主人の口癖である。帰ったその日だけならまだしも、これが2、3日続くと聞かされる方は耳にタコである。国体優勝!!何が嬉しかったかと言うと″このグチを聞かされずに済んだ”その一言に尽きよう。
元来スポーツ音痴の私は、新聞もスポーツ欄は素通り状態。真っ先にスポーツ欄に目を通す主人とは正反対。「この前の○○選手権の切り抜きをしておいて。」と言われても「えーっ。そんなのあったっけ。」という始末。こんな風だから私より周りの人が今回の優勝の記事を見て「ご主人すごいねー。」「見たよ新聞。」などと口々に言われるのを聞き、「みんな見ているんだ、すごいなー。」とそっちの方が感動ものだった。
さて、97年の3月頃だったか、これからは矢地さんとダブルスカルを組むと決まってから、我が家の状況は前にも増してお父さんのいない生活へと変わって行った。スケジュール表の土日は必ず試合が入り、平日も帰りは21時、22時。夏休みも無いに等しい。やっている本人は「あー。今日も吐く程練習した。」と満足げ(!?)だが、放っておかれる私達は‥‥。
私達と言うのは、2才になる我が娘だが、日頃あまり父親が相手をしないせいか、「とーちゃん、あっちへ行って。」とかなり手厳しい。負けじとちょっかいを出すもんだから、最後には泣かせて終わり。お父さん!!将来、娘にボートを漕がせるつもりなら、今からゴマすっておかないと。
ふと、この人はいつまでボートを漕ぐつもりなのだろうかと思う。本人の弁によれば「矢地さんがやめるまで。」だそうであるが、その後もお世話係をずーっとやっているのではないかと秘かに心配をしている。お世話する方からされる方へ変わるのは”ねんりんピック”の頃であろうか。本来の仕事以外にも仕事を抱え過ぎの様な気もするが、好きでやっているので何も言うまい。とにもかくにも体にだけは気をつけて欲しいと思っている。
何はともあれ、一生に一度あるか無いかの国体優勝おめでとう、お父さん!!
(夫の注)
「矢地さんがやめるまで。」というのは、「矢地さんがやめたらボクも一緒に止める。」という意味ではなく、「矢地さんがやめれば、社会人大会の30歳以上シングルスカルはボクの天下がやって来る(やっと)。」という意味であった。
瀬田漕艇クラブ機関紙投稿'96.08
96年シーズンについてレポート
松江ローイングクラブ 松本健治
- 全日本社会人実業団選手権
96年のメインレースが、この大会の30才以上シングルスカルでした。冬季から黙々と優勝めざして練習に励みました。朝日レガッタでは、その成果もなく西原君(広島太田川BC)や高谷君(瀬田RC)にあっさり負けてしまい、「どうせ、コイツらは社会人の30才以上にはでれねぇ。」と負け惜しみを言っておりました。勝負は城崎大会の覇者、矢地さん(中国電力)との争いになるだろうと、2人でライバル心をむき出しにして、毎回、大橋川で並べて練習していました。先行逃げきり型の矢地さんに対して、後半追い込み切れない型の私は、練習からいやな雰囲気になっていましたので、気持ちを切替え、銀メダル狙いにしました。ところが、今泉さん(三菱化学)や堀内さん(ヤマハ)など26人も出場するというではありませんか。「いったい、どこにそんなに30才以上のスカラーが隠れているんじゃー。」と嘆きました。
松江RCは無謀にもダブルエントリーを試みました。艇を運ぶのがめんどくさいので、もう1種目はKFにしました。不幸にも?レース順が重なることもなく、炎天下の中、順調に各人5本のレースをこなして行きました。(結局2日で7本漕いだ。)私たちのように強くないチームは、毎レース接戦となり少しも気が抜けないものばかり。1日で5本目になると、薬物中毒者のようにもうろうとしていましたが、となりに瀬田RCのおじんクルーが並んだので、「絶対あのチームにだけには負けてはならない。」とみんなで誓い、残り少ない闘志を燃やして漕ぎました。が、カラダはボロボロ。レースは予想どおり先行逃げきれない瀬田RCは、後半ズルズルと遠ざかっていきました。
我がチーム期待の加藤陽子嬢は、準決勝の楽勝レースで何故か沈。大阪の汚い水を飲んだ彼女は「ほんに死ぬかと思った。こげん飲んで病気にならんだーか。」と楽しませてくれた。その後、彼女は落水恐怖症なるトラウマにかかり、翌週の国体ブロック予選であわや負けかけるというおちゃめさもあった。
- 第13回松江市民レガッタ
松江RCの一大イベントが市民レガッタです。当初は20クルーから、細々と始め、プログラムをわら半紙に印刷したものでした。年々参加クルーが増えて、今年はついに 280クルー 1,400人も参加するマンモス大会になりました。スポンサーもついて地元のテレビ局の中継もあります。もともと、ボートの普及と市民に親しんでもらおうと企画したため、いくつかのルールをいれました。
@練習は指導者がついて、各チーム1時間を2日おこない、練習からボートを楽しんでもらう。
Aレースも最低2回漕いでもらう。
Bいろいろな職場に出てもらうため、大会は日曜日の1日だけでする。
準備と練習は6月はじめから少しずつおこないます。大会のほうは参加クルーが多すぎて朝7:30から夕方 18:00まで7分間隔6レーン1杯上がりでビッシリやっても消化しきれず、朝日レガッタ並の過密スケジュールと全日本選手権並の厳しさになっています。スタッフの人員確保も限界に近く、今後の運営方法をどうするか転換点にきています。何かよいアイデアや意見があればお聞かせ下さい。
大会は関西漕艇選手権と同じ日なので、私は当日のお手伝いができず、今回は参加賞のTシャツ作りと、入賞の各賞品選び、プログラム作成を担当しました。
Tシャツ作成は初めてのことでしたが、図柄は大好きな南野陽子と決めていたのでなかなかのものができました。(各方面で不評を買ったが、これを作りたくて担当になったので気にしていない。)
また、レースを消化する苦肉の策として、敗者復活戦をエルゴメーターVPMによる方法としました。これも初めての試みのため、パソコンのセッティングや雨天対策に苦労しました。なによりも、ボートに乗りたくて出場したのに、陸でレースをすることに不評を買いそうで不安でした。(前年にデモで個人エルゴ大会を隅で開催したが、盛り上がらず。)
8台のエルゴを並べて「スタート用意。」というと、あたりはシーンと静まり返り、「ゴー」の合図で「ドォリャー」と大歓声になりました。VPMによるレースはTV画面にて誰でも勝負が判りやすいこと。すぐそこに選手が漕いでいるので応援のしがいがあることなどで一般市民にも大うけ。一時は水のレースより大盛況でした。
エルゴ大会の助っ人として小沢さん(広島太田川BC)にお願いしたところ、奥さんを同伴でこころよく来て頂き大変に助かりました。ふと「小沢さんは結婚していたかな?」と思いましたが、わざわざ聞くのも変なのでやめました。ところが新婚20日だったようで、びっくらこいた。
- 東日本選手権競漕大会
96年は、戸田でレースをしていなかったので、思いついたように参加しました。他のメンバーはお盆前でかなり嫌がる奴もいたけど、強引に寝台列車に連れ込みました。監督主将会議やコックス計量もなく、5分間隔で、審判艇もつかず、発艇号令も横の岸から合図するすごいローカルレースでした。しかし、インカレ直前の大学生はなかなか手強く思うようなレースになりません。
国立艇庫はやたら女の子が多く、しかも、どう見てもボートを漕いでいるとは思えないアムラーばかりが、ウジャウジャしていました。コックスにそんな女の子を乗せたクルーもいて、男ばかりの松ローは「うちは、女はいても加藤だけんなぁ。」と怒りがこみ上げてきました。しかし、そんなクルーにあっさり負けて情けなかったです。やっぱり、国立艇庫はインテックや中部電力の巨大なネェーちゃんたちがよく似合います。(と言いながら、若いへそ出しピチピチ女子大生に囲まれて集中できなかったのが敗因でした。)
瀬田漕艇クラブ機関紙投稿'96.01
島根県平成7年度コーチ研修会のレポート
松江ローイングクラブ 松本健治
今回は、95年末に標記の研修会に出席しましたので、その内容をリポートします。この研修会は島根県体育協会が毎年実施しているもので、島根県のスポーツ競技力の向上を目指して、各種競技団体の指導者を対象におこなわれています。今年は33競技の約90名が参加しました。
講師は鳥取県の総合トレーニングプラザ・ワールドウイング代表、小山裕史氏でした。講師は、昭和31年生まれ。渡米してウエイトトレーニングを基本から勉強し、「筋力と筋肉の追求」「筋力と競技技術の融合」をテーマとして研究、指導に携わり独自のトレーニング理論を確立。筋力トレーニングと競技技術を融合させる指導者として知られ、マラソンの宗兄弟をはじめ多くのオリンピック選手やプロ、アマスポーツ選手の指導にあたり、自らは筋力の最大限の発達を求めてボディビルアジア選手権等で優勝されています。
以下はその講習会の内容を私なりに要約して抜粋したものです。
- からだのかたい選手も一流選手になれる
からだのやわらかい人がスポーツ選手に適していると言われるが、柔軟性はスポーツにおいてあまり重要ではない。柔軟性とは時間をかけてひねる・曲げること(立体前屈測定のような)を示すが、実際の競技でそのような動きをすることは少ない。それよりも弾力性(ゴムマリのようにポンと跳ねる動き)が重要である。陸上競技や野球、テニスのように筋力とスピードを必要とする競技(ボートもあてはまる)は弾力性が高まるトレーニングをすべき。
- 乳酸が発生しないと効果がないというのはウソ
筋肉の動きとは「弛緩→伸張→短縮」の繰り返しと組合せである。持久性の競技で筋肉の動きが悪くなる理由は、無酸素運動により筋肉が共縮した状態になり、発生した老廃物(乳酸)による血流阻止によるものである。このような状態は、手や足の末端部を強く使ったり、おかしな筋肉の付き方、フォームのバランスが崩れたりするとなりやすい。バランス改善と、簡単に共縮を起こさない、乳酸の発生しにくい、乳酸の除去能力の高い身体作りのためのトレーニングが大切。耐乳酸耐性トレーニングとよばれるものは、そのやり方に注意しないと、筋肉の破壊を繰り返すだけで、動くはずのない条件で運動しても効果があがるとは考えられない。その証拠にこのような条件では筋肉が硬直して弾力性、柔軟性とも失われている。
- 練習をすればするほど乳酸値を下げ、筋肉の柔軟性を回復できる
初動負荷法によるトレーニングを勧める。初動負荷とは、その運動の主動筋を最大限に伸長させたポジション(その動作の開始時)から、一気に筋を短縮させ、加速的、または慣性の勢いで一連の動作を行う方法。主動筋の「弛緩→伸張→短縮」の一連過程を促進させ、主動筋活動時にその拮抗筋の収縮(共縮)を防ぎながら行う運動。(ダンベルを持ち上げる時に、動作の開始時に力を発揮しておもりを引き上げ、動作の中盤、終了時に無理に引き上げないような動き)これに対して終動負荷とは、チューブトレーニングのような動作の中盤や終盤まで負荷のかかる運動を言う。
初動負荷と終動負荷で乳酸値とその後の動態を調べたところ、終動負荷では運動後に乳酸値が増大し、初動負荷では減少していた。終動負荷では血流阻止で運動中に乳酸がたまり、運動後の血流再開で徐々に流出していることを示し、初動負荷は強く動いているにもかかわらず、血流が確保され運動中に乳酸が除去されていることを示し、さらに促進することも示唆される。また、終動負荷は筋肉の硬直を招き関節の可動域を制限することが認められるが、初動負荷は有意に増大している。(※このあたりの内容は研究論文や実験ビデオで説明を詳しく受けましたが、膨大で難解な内容だったため私では要約できませんので省略します。しかし、この理論はきちんと実験データで論証されていました。)
- ウォームダウンでストレッチをしても乳酸は取り除けない
- 練習前の無理なストレッチがケガを招く
はげしい運動(終動負荷)で筋肉に乳酸が溜まり張っている時(共縮)は、筋肉の柔軟性を欠いている。それを無理に伸ばしたり、曲げたりするとさらに筋肉が硬直して乳酸の除去はおこなえない。かえって、関節部分の炎症を招く恐れがある。また、運動前のストレッチも無理に筋肉を伸ばしたりすると、筋肉が硬直して柔軟性を欠くことになりケガの原因となる。
- アスファルトの道路をランニングするときはソールの薄いシューズを使え
靴底の厚いシューズを使うと膝への負担を減らしてケガを防ぐとメーカーは言う。しかし、靴底が厚いと「地面を跳ねる」「蹴る」動作との間にクッションが入ることになり、初動負荷の運動にならない。着地の衝撃は、重心の異動によるのでフォームで改善できる。
○わたしの感想
この他にもおもしろい内容はありましたが、印象に残ったことは以上のことです。私も半信半疑なこともありますが、有名な一流選手を指導していることは本当で(マラソンの安部友恵選手やスケートの楠瀬選手などがビデオに出てきた)実績はすごいものがありました。ボート選手も指導しているかわかりませんが、漕艇競技にも応用できるかもしれません。
瀬田漕艇クラブ機関紙投稿'96.01
95年エルゴ大会中国地区大会のレポート
松江ローイングクラブ 松本健治
標記の大会が広島県廿日市で12月24日にありました。松江から3時間半かかりますが、当日の早朝に中国山地を越えて出掛けていきました。昨年のこの日は大雪で、当日こられない団体があった程でした。今年も危ない天候になりつつあったので、大会も早めに切り上げて終了したのですが、帰りの中国自動車道は大吹雪で前が見えなくて30q/h以上出せない状態でした。生きた心地がしませんでした。
結果 団体戦(5*500m)の記録を紹介します。
| 女子の部 |
| @廿日市高A | 9.33.7 |
| A松江北高B・島根大学 | 9.35.1 |
| B岡山東商高 | 9.35.4 |
| 男子ジュニアの部 |
| @関西高A | 8.11.1 |
| A関西高D | 8.11.9 |
| B岡山東商高 | 8.19.4 |
| 男子シニアの部 |
| @松江RC・島根大学 | 7.40.1 |
| A中国電力 | 7.40.6 |
| B品川白煉瓦 | 7.47.6 |
| C太田川BC・愛媛大学 | 7.51.3 |
中国地区はレベルが低いので、ちっとも威張ることではないんですが、この大会が始まって以来、松ローは団体戦を制してきました。(別紙栄光の跡を参照)しかし、メンバーが少ないので一度たりとも、単独チームで望んだことはありません。その時、その時の強いチームに混ざっておいしい汁を吸って きました。最近では、中国電力さんと仲良くやっていましたが、中国電力の部員が増えたため、今年の提携を断られてしまい、ついに松江RCVS中国電力の対決となりました。
今回松ローは島根大学の主将に応援をお願いしましたが、国体に優勝経験のある品川白煉瓦、武田大作を加えた太田川BCと激戦が予想されました。レースは予想どおり抜きつ抜かれつを繰り返し(モニター上で白熱)最後の選手に渡った時、約1秒差で負けていましたが、ラストスパートで僅かにさして辛うじて勝ちました。しかし、中国地区は賞品にエネルゲンもなく、あのバナナがとても懐かしい。
瀬田漕艇クラブ機関紙投稿'95.10
瀬田漕艇クラブ「漕艇通信」初投稿
松江ローイングクラブ 松本健治
- はじめに
95年の秋に松江RCの加藤陽子さんと瀬田RCの浅野あい子さんがダブルスカルを組んでアジア選手権に日本代表として派遣される栄誉となりました。これも何かの縁でしょうから、これを機会に、瀬田ローと松ローが少しでもお近づきになれたらと思います。ということで、渡部浩さんの御好意により、瀬田ローの漕艇通信を送って頂きましたので、お礼を兼ねて投稿しようと思いました。なお、私は日本を代表するボートのクラブチームとして「瀬田ロー」の名前はずいぶん前から存じていますし、艇庫も何度かお邪魔したこともありますが、いつごろからあって、どんな人がどれくらいいて、どんな活動をしているのか詳しく知りません。故に失礼なことを書いたりしているかも知れませんが、のちのち勉強しますのでまずは御容赦下さい。
これを書いています私を、ご存じの方がおられるかもしれませんが、私は松ローから選手としていろいろな大会に出ています。しかし、会長とか代表というエライもんではなく、会計係で、お金を集めたり、選手登録や大会の申込み、切符や輸送の手配、梱包など雑務を一手にやっています。このような他団体との連絡窓口も好きでしています。どうぞよろしく。
- 初の日本代表
さて、この原稿が漕艇通信に載る頃には、既にアジア選手権は終わって結果も判り、それぞれの選手も帰ってきていることでしょう。その辺りの詳しいお話は本人たちに後日まとめて報告してもらうこととして、松ローから、松江水域から、日本代表(アジア選手権とはいえ)が出たのは初めての快挙でした。島根県の漕艇界からも十何年ぶりの2人目ということで、皆驚き感激しているところです。残念ながら、まわりが盛り上がる時間もなく、決まってすぐに本人達が合宿にいってしまったので、壮行会やイベントを行うことができませんでした。まあ、ご褒美で行くわけではないので、こちらからは「がんばってこいよ。」と祈るだけにして、あとは古川さんにおまかせです。本当は派遣選考会も「あかんやろー。」と思っていたので、最初からまるっきり何も準備をしていませんでした。私個人としては、ご祝儀や餞別を集める時間が少なかったことを後悔しています。
- 歴史の時間
松江ローイングクラブの歴史は、瀬田漕艇クラブの長く輝かしいものに比べると貧相ですが、ご理解して頂くために私の知る範囲でご紹介します。
松江RCは昭和57年に島根国体(前年は琵琶湖国体)が開催されることから、昭和55年に発生しました。当時は島根県で本格的に漕艇競技をおこなっている社会人の団体がなく、協会も思案に明け暮れていましたので、出場することが目的だったと思います。そのうち、島根県出身者で大学や高校でのボート経験者が付近に潜んでいるのをむりやり探し出して、なんとか人数を集めているうちにカッコがついてきました。ナックルフォアは滋賀の国体のころから、かなり強くなったらしくて、島根国体の本番には地元では「優勝まちがいなし。」と期待されていました。予選・準決勝とトップで通過しましたが、決勝は惜しくも2位。このときの優勝は、38才の古川さんの漕ぐ瀬田漕艇クラブであったのでした。この関係は、94年の国体の愛知選抜とNTT東京、95年の東京電力猪苗代とトヨタ自動車のようなものでしょうか。しかし、この当時私はまだ生まれてなかった?ので詳しいことはわかりません。
活動の中心は国体の参加で、その他は朝日レガッタと地方レガッタくらいの出場を細々としていました。その後新しいメンバーが入るわけではなく、過疎化と高齢化がすすんできました。
「このまま松江RCに島根県の漕艇を託すようでは駄目だ。」と協会も気づいたようで、いろいろな努力により遂に県内初の実業団のチームが平成5年に誕生しました。島根県江津工業高校出身で大阪の浜寺RCで活躍していた矢地洋二さんを引き抜いて、突如「中国電力鞄根原子力発電所ボート同好会」が発足しました。浅野あい子さんがおどろいたように、あれよあれよという間にりっぱな艇庫が立ち(注1)、高級外国艇がボンボン納入されたので(注2)、我々も唖然としました。そこまでは良かったのですが、その年からすぐに「全日本だ、中日本だ、社会人だ。」と日本全国を松ローも一緒にひきづりまわされ、いままでの十倍の練習をさせられることになりました。おかげで、ポツリポツリと成績をあげたりしていますが、昔ののどかな生活がなつかしい。
- 地理の時間
松江RCの本拠地は島根県の県庁所在地松江市にあります。松江市は人口14万人の城下町で、宍道湖から中海・日本海に流れる大橋川を挟んだ町です。川を間に南北に町は広がり、川には4本の橋が架かっています。艇庫は自前のものは持っていませんので、県の艇庫に間借りをしています。その艇庫は大橋川のほとりにあって、駅から歩いて5分の所にあります。川はちょうど瀬田川のような雰囲気で、所々、葦が生えています。流れが潮の満ち引きで変わりますが、太平洋側のように水位が極端に変わるようなことはなく、比較的いつも穏やかです。ただし、冬は山陰というだけあって、季節風が強くて雪が降って寒いので乗艇練習をするには根性が要ります。
松江RCの会員は30名前後所属していますが、現役で漕いでいるのは10名程度です。構成員は、ほとんどが社会人で、職種は公務員、会社員、教諭、警察官と様々です。会員の半分は、松江北高漕艇部の出身者で、漕艇部OBで地元に残った者は強制的に加入するならわしになっています。もちろん、松江北高OB以外もたくさん所属していますが、すべてボートを高校・大学で経験された方のみで、勧誘は口コミの情報から個別におこなっています。
- 島根県における問題点
島根県は田舎で貧乏の高齢化の県です。ボートも滋賀のように強くはありません。ボートをしているところは、松江市と江の川(江津市)との2ケ所しかなく、県内の団体は実業団1、大学1、社会人3、高専1、高校3だけと大変少ないです。もっとも困ったことは常設の漕艇場がなく、何年ごとに回ってくる国体のブロック予選や、高校選手権には毎回、仮設のコースを設置するところを探している状態です。そのため、皆さんに参加を紹介できるレガッタやイベントが残念ながらありません。
(注1)この艇庫は、建物、設備、外溝、桟橋、特製ローイングタンクを含めて(土地代はなし)、〇億〇千万円の代物で、わずか3ケ月あまりで完成しました。そのあまりにもゴージャスな施設と建物に、地元では驚き、一部では「(夏に盛大におこなわれる)花火大会(中国電力協賛)の打ち上げ本数が減ったのはあの艇庫のせいだ。」といわれました。
(注2)矢地さんは自他ともに認める艇コレクターである。部員が10名に満たないにもかかわらず、独E社の8+,4+、2×Aをはじめ、英A社4+,4×/−,2×A,1×A、伊F社1×A、米V社2+、1×、その他日本K社のKFA、1×や、今は亡きY社1×があります。会社の上司にも「矢地君。こんなに艇を買ったって、漕ぐ選手がいないじゃないか。なんだか、矢地君のコレクションで会社は購入しているようなもんだなあ。」と言われた矢地さんは「そうです。いけませんか?」と答えたらしい。