古代のロマン・エジプトの旅

 エジプトといえば「ピラミッド」、そして、“エンナにガラベーヤ”(民族衣装)の旅人がラクダの背に揺られながら砂漠を旅行く風景を思い浮かべる。しかし、この土地に旅行し、この目で現実を確かめることができる人は意外に少ないのかもしれない。出発前から、エジプトは砂漠であること、暑いこと、そして夜と昼の寒暖の差が激しいということだけは頭に入れて出かけた。(古代のロマンエジプト8日間の旅:主催(株)山陰中央トラベル)


2月16日(水)
 出発の朝は山陰地方に大寒波が襲来し今冬の最高の寒さであった。一刻も早く暖かいエジプトへ逃避したいとの思いでいっぱいであった。岡山空港で他社の旅行団と合流、一行240名は、14時50分エジプト航空機(チャーター便)で、エジプト(カイロ)へと向かった。飛行距離1万キロメートル、滞空時間13時間40分(時差7時間)カイロの国際空港に到着したのは21時(現地時間)であった。

 エジプトに入って、最初に感じたことは実に厳重な警備である。空港は武装した兵隊による監視。ホテルでも、入口には所持品検査のゲートが設けられているなど異様な雰囲気であった。

 空港からギザに入ると、まっ先に目に入ったのが巨大ピラミッドであった。夜陰にもこの巨大なピラミッドが、エジプトに来たことを視覚をもって感じさせてくれる。


2月17日(木)
 今日の予定は、ナイル川の西岸地区ギザのピラミッド、スフィンクス、考古学博物館、そして、夜はピラミッドとスフィンクスの「音と光のショー」である。

 「ギザ」とは、エジプト語で“渡る”という意味で、カイロからいうとギザは神聖な川=ナイル川の向こうにある地区ということになる。

 最初に、クフ王のピラミッドの見学に行った。このクフ王のピラミッドは最も大きく美しい、高さ 146m、頂上部分が欠けており、実際には 137mである。中央にポールが立ててあり、もともとの頂上部分を表示している。古代王朝時代(第4王朝:B.C.2500年頃)に造られたものである。

 巨大な花崗岩を積み上げたもので、およそ1個のブロックの高さ(大きさ)が大人の身長ぐらい、横はその倍ぐらいの立方体(大人が立っているのと比較)と考えてよいだろう。この巨大な石材はナイル川の上流から船で運び出したものといわれる。まったく現代の建設技術をもってしてもたいへんな作業だろうことに感嘆させられた。この巨大なクフ王のピラミッドではあるが、クフ王の像はいちばん小さく、10cmぐらいのものというを聞いて二度ビックリである。

 クフ王のピラミッド(高さ146m)を前にして、その奧にカフラー王のピラミッド(高さ 143m)、メンカウラー王のピラミッド(高さ65.5m)と、次々に3つが並んでいる。眺めていると、カフラー王のピラミッドがいちばん大きく見える。−これは少し小高い丘の上に造られているからとのことである。また、カフラー王のピラミッドには頂上部分に化粧仕上げの跡が残っている。もとは全体が化粧仕上げになっていたのだが、後にこれを取り外してモスクの建設材に使用したため無くなったとのことである。その脇には、王妃の小さいピラミッドがある。ピラミッドの総数はエジプト全体で80基ともいわれている。

 エジプトのピラミッドは、世界七不思議の一つ、今でも世界の研究者たちがこの謎の解明に取り組んでいる。

 私たちは、3基のピラミッドのうち、いちばん小さいメンカウラー王のピラミッドに入った。ピラミッドの中腹から急勾配の階段を、しかも中腰になって降りていく−途中何度も頭を天井の岩にぶつけながら進んで行った。だが玄室には何も展示されていない。昔、ピラミッドの玄室に入った人は、みんな頭が変になったり、病気になったりして死んでしまったという。−“死者の霊”、“たたり”などと考えられていたが、本当はウイルスと薬品に侵されたことによるものよるものであったらしい。(入室料のほかに写真撮影料が必要)

 ピラミッドの前に立ってみると、階段状になって一見壁面を登れそうな感じである。しかし、先ほど説明したとおり、一段の高さがかなり高いことと頂上部分はかなり強い風が吹いていて、今までだれも登頂に成功した人はいないとのことであった。

 ピラミッドのある広場には、たくさんの美しい小粒の玉石が砂の中にある。その中に時々淡いピンク色をしたきれいな粒がある。記念に数個拾って帰った。

 ピラミッドの広場には、あちこちで観光用のラクダを見かける。私たちもラクダに乗ってみた。ラクダの高い背から見下ろす景色は最高である。ラクダは実によく馴らされており、お客を乗せるときは足を折り曲げて座ってくれる。乗りやすいが、歩き出すと前足を立て、次に後ろ足を立てるので、しっかり鞍にしがみついていないと振り落とされそうである。ラクダから降りるときは、今度は逆の順に足を折り曲げて座ってくれる。実に楽しい経験であった。10〜20mぐらい乗って3ポンド(1ドル)である。

 午後は、エジプト考古博物館の見学に行った。
 エジプト考古博物館は、世界に誇る展示品といわれるだけあって1〜2階で展示室が実に100を超えるという。見学時間2時間という予定で入ったが、全部に目を通していたら1日いても見終えられないであろうと思った。ガイドのヤーセルさんが、これだけはぜひ見ておいて、というものを要領よく案内してくれた。ツタンカーメンの黄金マスク、黄金の棺、人体形の棺、黄金のベッド、アラバスター(大理石)製の内蔵を入れる棺、黄金の玉座、その他副葬品など実に多彩であった。終わって出てみると、やっぱり2時間は過ぎていた。博物館の中もカメラ撮影(有料)が許されている。

 観光地のどこに行っても、土産品売りの人たちが日本人観光客を見かけると「センエン、センエン。ミルノワタダ・・・。」と寄ってくる。最初は10枚ぐらいで千円だったパピルス(贋物)が、時には30枚ぐらい千円まで値下げしてくることもある。エジプト旅行のみやげにこんなものをもらってもありがた迷惑であることを・・・。

 夜は、音と光のショーを見学に出かけた。寒いから防寒具の準備をということで、覚悟して行ったが、エジプトの夜(特に屋外)は想像以上にたいへんな寒さであった。

 ピラミッドやスフィンクスをレーザー光線で照らし、古代エジプトの歴史や物語を解説してくれる。エジプトの歴史(概略)を知るためには格好の時間であった。


2月18日(金)
 早朝、陽が昇りはじめる頃ホテルの屋上に立ってピラミッドの幻想的な景色を眺めた。シルエットのように浮かび上がるピラミッドは格別であった。(ホテル:ル・メリディアン・ピラミッド)

 今日の見学予定は、サッカラの階段ピラミッド、ダッシュールの赤いピラミッド、屈折ピラミッド、絨毯の学校(工場)、メンフィスの崩れたラムセス2世像、ナイル川クルーズ(ディナーショー)である。

 サッカラの階段ピラミッドは、ジェセル王(クフ王の父君−古王朝時代−第3王朝、B.C.約2680年)のために造られたもので6重の階段状になっている。高さ60m、基底部 140m× 128mである。魔除の呪文「ピラミッド・テキスト」が発見されたところでもある。倒壊防止のためか、外壁に増設補強された部分が見られる。裏側に「セルダブ」(小さな石室)があり、中にジェセル王像(レプリカ)が安置されていた。

 サッカラの少し南に行くと、ダッシュールの赤いピラミッドがある。赤いピラミッドは安定性を重視して築かれており、断面が二等辺三角形のピラミッドである。石材に“赤い石”が使われておりこの名前がついた。赤い石材は、スーダンから運んだといわれピラミッドでは最古のものである。今では、石材も表面が風化し赤味はほとんど感じられない。

 ここでも石室を見学した。ピラミッドの中腹から入るが、玄室まで約80mほどの階段を中腰で下って行くのである。ここでも階段の天井にずいぶんと頭をぶつけることになった。

 赤いピラミッドの隣には、屈折ピラミッド(高さ105m)がある。築造の途中、王の死期が迫ったため工事を急がざるを得なかったという説と、傾斜をあまり急勾配にしたため崩壊の恐れがあり、50mぐらい上ったところから急に角度を緩やかにしたという2つの説がある。

 この、ダッシュール地区は軍事基地があったところで以前は見学できなかった。96年から一般に公開されるようになったとのことである。

 メンフィスの町に向かう途中、絨毯の学校(工場)に立ち寄った。子どもたち数人が織機の前に座り、下絵を見ながら巧みに色糸を編み込んでいた。子どもたちは、隣に座って“いっしょに写真を撮ろう”と誘っている。みんな観光客からのチップが目当てである。

 次は、メンフィスにあるラムセス2世像の見学に向かった。

 メンフィスは、ナイル川に近い農村地帯にある。古代エジプト時代には首都として繁栄したところで、歴史的にみても重要な地域である。道路の脇には用水路があるが、これはナイル川の水を引き入れて農業を盛んにした土木工事の遺跡でもある。一帯にナツメヤシが植えられており、南国の情緒がいっぱいの農村地帯である。農産物はトウモロコシ、小麦、ヤシの実、モロヘイヤなどである。集落の中に、日干しレンガで造った無数に穴の空いたカプセル(鳩の巣)があった。鳩はエジプト人の貴重なタンパク源である。

 また、エジプトではたくさんのラクダを見かける。農村地帯に行くとロバ(農耕役用)が多い。しかし、これらの家畜はエジプトで繁殖しているのではなく、ラクダはスーダンから、ロバはリビアから買い入れているという。ちなみに、ラクダは1頭3万円、ロバは1万円ぐらいである。

 ラムセス2世像のある遺跡は、メンフィスの農村地帯の中にあった。遺跡の入口を入るとすぐ右側の建物にラムセス2世像を横たえた展示場がある。この像は、もとは立像であったが、地震のため膝のところから折れたもので、現在では横にしたまま建物で覆って展示してある。膝から頭まで15mぐらいの巨大な石像である。立像であった当時の姿を想像しながら、いろいろな角度からカメラに収めた。建物の横には1912年に発見されたアラバスター製のスフィンクス(10mぐらい)のほか、たくさんの石像が展示されていた。

 この付近一帯は遺跡が点在しており、今回は見学しなかったが少し北側にプタハ神殿跡、さらに北に 500mぐらいのところに北の神殿があるなど遺跡の町である。

 夕方、再びカイロの町に帰り、ハーン・ハリーリーにあるスーク(市場)に立ち寄った。この町は、フセインモスクなどたくさんのモスクが集中している地区で、礼拝の時間になるとたくさんの市民が集まり賑わうところである。スーク(市場)は、このフセインモスク前広場奧を中心に迷路のように広がり、通りの両側一杯にいろいろな店が並んでいる。みんな日本人観光客とみると、かたことの日本語を使いながら客の呼び込みに懸命である。ときどき、「モウカリマッカ!」と云ってくるのには笑った。

 日が傾くころホテルに帰った。今日のホテルは市内中心地のナイル川沿い「10月6日橋」のたもとにある「ラムセス ヒルトンホテル」である。私は、ナイル川に面した絶好の部屋が割り当てられており、夕日が沈みかけるナイル川の夕景とカイロの街を心ゆくまで眺めることができた。

 夕日の沈むのを待って、夜はナイル川クルーズに出かけた。ナイル川の美しい夜景の中で、シーフード料理をいただきながらベリーダンスと、イスラームの伝統芸能イスラーム神秘主義者スーフィーの舞を見学した。美女が体をくねらせながら悩ましげに踊るベリーダンスも美しいが、男性が回転しながら衣装を傘のように広げて踊り続けるスーフィーの舞(たいへんなエネルギーを必要とする過酷な舞い)には感嘆以外の何ものでもなかった。


2月19日(土)
 ホテルを少し早めに出発し、この日は東岸地区にある「ムハマンド・アリモスク」の見学に向かった。この地区は、イスラーム地区の古い町で通称“死者の都”と呼ばれている。町のあちこちに大小さまざまな塔(墓)があり、市民は居住地としては好まないところである。したがって住居費が安いことから給料の安い公務員の利用が多く、一般に公務員のベッドタウンとも呼ばれている。

 ちなみに、エジプトでいちばん高所得者はというとベリーダンサーといわれ、一日の稼ぎが8千円ぐらいともいわれる。たぶん昨晩のダンサーも売れっ子で、相当の高給とりではないかと思った。ちなみに、公務員の給料は特に安く1カ月4千円ぐらいといわれている。

 ムハマンド・アリモスクに到着した。

「ムハマンド・アリ」はオスマン・トルコが強大な勢力をほこっていた時代に、アラブ諸国の中でいちばん早くエジプト近代化の基礎を築いた人である。このモスクは、ムハマンド・アリのために1857年に建造させたものである。イスタンブールの様式を採用した建築、すなわち巨大なドーム、鉛筆型のミナレット(尖塔)を備えているのが特徴である。寺院というより城塞といった感じの堂々たるものである。

 内部に入ると、大きな礼拝場とその天井絵の美しさに圧倒される。天井に吊されたたくさんのランプも、昔はローソクで照明されていた。また、堂内正面に設置された黄金の布教階段の美しさも圧巻である。

ここで、エジプトの宗教などについてふれて見たい。

 エジプトは、多神教の古代文明時代から、キリスト教(コプト教)時代、そして7世紀以降のイスラーム教時代となっている。古代文明時代、“死者は蘇る”という死者信仰があり、王たちの死後遺体をミイラ化して保存した・・・。最近、日本でも最近これに似た事件が起こっていたが、これらを真似たものでは?と思った。

 イスラーム教徒は、今でも(1)信仰告白(シャハーダ)、(2)1日5回の礼拝(サラート)、(3)断食(ラマダーン)、(4)喜捨(ザカート)、(5)大礼拝(ハツジ)を行うこととしている。このほか教徒を律するためのイスラーム法(刑法、商法、民法にあたるもの)も存在する。

 また、人は生まれたときから死を迎えるまでいろいろな儀式がある。(1)生まれて7日目に「命名式」を盛大に行う。(2)やがて成長すると「割礼」という儀式がある。衛生上の理由でするといわれるが、男児は陰茎の包皮を、女児は○○を切除する。(3)「結婚」では、男性は法で定められた結納金(マルフ)を用意し、相手方の家族にわたす。最近、相場が上がってきて、男性はたいへんだとか? 恋愛結婚も自由だが、宗教が異なると一方が改宗しなければならず面倒なことになる。また、エジプトでは1人の男性が4人まで妻をもってもよいという。−ただし、平等に扱わねばならない。(4)最後が「死」である。モスクで礼拝し、土葬にする。死後3日間、遺族は弔問客を迎えるという。

 昼食を少し早めにすませ、次の目的地アスワンへ向かう。

 昼食会場となったシェラトンホテルは、実に大きな庭園をもつ豪華なホテルであった。庭園にはプールがあり、南国の植物、オーガスタ、サボテン、ブーゲンビリア、パピュリス、タフタ(赤い花をつける喬木)、オレンジなどが美しく配植されていた。

 次の目的地アスワンは、カイロから南へ 800kmぐらいナイル川を上流に遡ったところであろうか? しかし、搭乗機の遅れから予定は大きく狂った。でもアスワンに到着する頃が、ちょうど夕陽の沈みかける時間で窓に映るナイル川の美しさを満喫することができた。

 ホテル、イシス・アイランド・アスワンは、ナイル川の小さな島にあった。連絡船がナイル川の島々の間を静かに進んで行った。島々の巨岩にもレリーフが刻まれており、さすがエジプトの国という風景である。


2月20日(日)
 この日の予定は、ナイル川のかなり上流まで上がる予定で、アスワンのイシス神殿、そしてアスワンダム、アスワンハイダムを見学した後アブシンベルまで足をのばす予定である。アブシンベルは、カイロから約1,000kmぐらいのところにある。

 まず、最初にイシス神殿に向かった。

 新王国時代(B.C.1500年頃)に入ると、ピラミッドから岩窟墓時代に変わっていった。豪族たちは、ルクソール地方をおさめ、勢力を拡大して各地に神殿を建設していった。

 このイシス神殿は、アスワンダムが建設される前はナイル川辺りにあった。しかし、アスワンダム建設により水没する運命となり、現在の小高いフィラエ島の上に移転されたものである(1980年移転完了)。

 巨大な列柱と、建物の壁画(レリーフ)など移転の際若干の損傷の跡がみられるものの、実にたいへんな作業であったろうことを伺い知ることができる。この大変な事業を実に巧く完成させたものと感心させられた。アスワンダム湖の元宮殿であった位置には、その痕跡のポールが数本残っているのが見えた。ダムの底には、まだたくさんの小さな遺跡が沈んでいるという。

 そして、アスワンダムとアスワンハイダムの見学に向かった。

 このアスワンダムは、イギリス支配時代の1898年にイギリスが着工し1902年に完成させた。当時、毎夏のように氾濫するナイル川のコントロールと、エジプトの農業振興を目的として建設された。当時としては、世界最大のダム(堤長:2140m、ダムの高さ:51m、花崗岩で構築)であったが、当初予定した効果は果たせなかった。しかし、堤頂は4車線の立派な道路となっており、現在では両岸を結ぶ主要交通網として大きく貢献している。

 その後、アスワンダムの上流にさらに大きなアスワンハイダムを建設することになる。

 アスワンハイダムは、ドイツとソ連の両国が協力し1972年に完成している。堤長3600m、ダムの高さ 111mで、ダムの上流 500kmまで巨大なダム湖(ナセル湖)となっている。琵琶湖の7.5倍もの広大な人造湖で、水力発電所が建設され、砂漠の中にはたくさんの送電線が走っていた。

 しかし、エジプトでの電力事情は今でも厳しく、依然として火力発電が主流で日常生活の中での電気料金の占めるウエイトはかなり大きいという。

ニュー・カタラクトホテルで昼食を済ませ、バス乗り場に行った。広場前の小高い丘の上に赤レンガ造りの立派な「ソテル・オールド・カタラクトホテル」があった。「ナイル殺人事件」のロケ現場に使われたホテルである。

 午後は、空路アブシンベルに向かった。

 アブシンベルは、ナセル湖の上流にある田舎町である。世界遺産となったアブシンベル神殿は、私たちがテレビ等でよく見かける巨大な座像のある神殿である。この神殿も、アスワンハイダム建設により水没する運命にあった。そこで、ユネスコが国際キャンペーンにより救済し、5年もの長期間をかけ大小2つの神殿を川岸60mの高台へ移築したものである。(移築工事:1968年〜1972年)

 この(元)大岩窟は、古代エジプト新王国時代、今から3300年前に造られた。第19王朝ラムセス2世は自己顕示欲の強い王で、自分自身の巨像を各地に造らせたという。

 新しく、移転を完了した大岩窟の正面入口には元のように4体の巨大なラムセス2世の座像(高さ20m)があり、また神殿内(岩窟)にもオシリス神の姿をしたラムセス2世立像8体(高さ10m)が左右4体ずつ向かい合って立っている。また、神殿内には壁画もたくさん残されている。

大神殿は、東向きに建っており毎年2回神殿正面から朝日が射し込み、神殿奧に安置されている神格化したラムセス2世像を照らすといわれている。

 神殿の移築工事は、神殿がナセル湖に沈む前に石像や壁画を巨大なのこぎりでいくつかのブロックに切り取り運び出した。新しい大神殿となった岩山の左側に工事用に使用した隧道跡があり、石製の扉で閉じられており工事の苦心の跡がうかがわれる。大神殿の右側には小神殿がある。小神殿も同じように移築したものである。小神殿の正面入口には6体の立像が並んでいる。

 夕方、再び空路アスワンに引き返した。

 アスワンでは、名物「ファルーカ」(帆舟)でナイル川のクルーズを楽しんだ。全長7〜8mほどの小舟(木造)に、舟の長さの2倍ぐらいもあろうかと思われる帆柱を立て、白い三角形の帆をかけている。この帆を巧みに操りながら川面を滑るように走っていく。ガラーベヤ(白い民族衣装)と頭に白いターバンを巻いたヌビア人の船頭が、ラクダの皮を張った鼓を打ちながら歌い出した。

  “エレラ・ボレーラ”(「愛してるよ!」の意)
     “エレラ・ボレーラ”

 若い助手の船頭は、舟の真ん中に立って踊りだした。“みんなもいっしょに踊ろう”と誘った。−乗りのいい女性の人達は小さな舟の中で“エレラ・ボレーラ”を繰り返しながら肩を組んで踊った。やはり音楽には国境はないのだと思った。ナイル川の夕陽の中に、平和な和やかな雰囲気が漂った。

 ヌビアの子どもたち、2人がやっと乗れるぐらいの小舟に小さな板きれを櫂にして漕ぎ、民謡を歌いながらファルーカ舟に近づいてきた。観光客からおみやげをもらうためである。

 ヌビア人=ナイル川の上流、ヌビア地方を中心に居住している人種(少数民族)で、独特な言語と文化をもっている。王朝を確立した時代もあるという。温厚な黒色人種だが、プライドが高く他人種との交流(結婚)はしないという。


2月21日(月)
 日程の消化が遅れたため、今日も少し早めにホテルを出発した。今日の予定は、切りかけのオベリスク(石切り場)、貴金属店、そしてアスワン空港〜ルクソールまで行く予定である。

 切りかけのオベリスクは、アスワンの東岸の石切り場にある。長さ41.75m、重さ1,000tともいわれる未完成のオベリスクはそのまま石切り場に放置されていた。どの王のために造られようとしたのかは不明である。エジプトには約40本のオベリスクがあると言われるが、このオベリスクが完成していればエジプト最大のものであったろうと言われている。現在、いちばん大きいオベリスクはフランスに輸出され、パリのコンコルド広場に立っている。一方、エジプトへは交換品として時計が輸入されたといわれ、その時計がカイロのアリモスクの塔に設置されている。オベリスクと時計の価値観(価値のバランス?)一瞬、首を傾げたくなるのだが……。

 ここで、この巨大な石材の切り出し工法を紹介しておく。花崗岩の岩山にオベリスクの形に両側に溝を掘る。その溝に木製のクサビを打ち込み水をかける。クサビが、水を含み膨張することにより石の下にヒビが入り切り取ることができるという。そして、ヤシの木で作ったコロにヤシ油を塗って川岸まで引き出し、ナイル川の洪水時を待って運び出していたという。

 次は、女性の方の最大の関心事アスワンの貴金属店に行った。そして、砂漠の中でいちばん美しい砂があるといわれる砂丘に立ち寄った。砂丘には小鳥のものなのか、昆虫のものなのか、無数の足跡が描かれている。“サソリ”でもいるのではと、足跡を辿って行き探してみたが何も出てこなかった。記念に砂を少しずつ採取して帰った。

 午前中で、アスワンを切り上げ空路ルクソールに帰った。ルクソール=「神聖なところ、太陽神のところ」という意味らしい。東岸地区には官庁、病院、学校などの公共施設が集中している。反対の西岸地区は王家の谷などがあるが、概して農村地帯で貧しそうな感じである。しかし、みんな墓泥棒で生活をしており、エジプトいちばんのお金持ちの人たちが住んでいるという。この地域を「クルナ村」(クルナ=牛の角の意)という。人口12万人というクルナ村の村長さん宅は、自宅の地下が墓の洞窟があるということで、政府は“墓がある家なら立派な家系の人であろう”と、村長さんに選任したとのことである。

 ルクソールの人口は100万人。うち60%はキリスト教信者といわれる。イスラム教徒の国で、イスラーム教徒よりもキリスト教信者が多いというのをちょっと不思議に思った。

 この日の昼食は、ハトの料理であった。ハト肉は、小骨が多いがおいしい肉であった。

 午後は、ルクソール最大の見どころカルナック神殿の見学である。ルクソールは、かつて「テーベ」と呼ばれる、中王国〜新王国〜末期王朝時代にわたって首都として栄えたところである。ツタンカーメンの即位の儀もこの神殿で行われたという。神殿の最大の見どころは、入り口の両側に並んでいるスフィンクスの参道、そして宮殿に 134本も林立している巨大な列柱(高さ23mのものと、15mのものと2種)、ラムセス2世像やオベリスクなどである。元は、東入口から西出口まで実に4kmもあったといわれる。神殿正面第一塔門には、元2本のオベリスクが立っていた。現在1本だけが残っているが、他の1本はフランスへ輸出(前述)されている。聖なる池のほとりには、巨大なスカラベ(昆虫:糞ころがし)の像がある。エジプトは、“太陽神の国”糞でも転がしていくうちに丸くなる→丸いものは「太陽=神」、というわけで、スカラベは“神聖な虫”とされている。このスカラベの像を3回まわってお祈りすると、再びエジプトに来られるとか、願い事が叶うとか言われている。みんな、それぞれ願いを込めながらこの巨大なスカラベの像をまわっていた。

 ここでも、神殿のあちこちで武装した兵隊が看視していた。ちょうど観光客の多い時期なのであまり不安は感じなかったが、観光客が少ないときには、いたるところが巨大な列柱と壁面で死角になるので不安感があるのだろうと思った。兵隊たちは、われわれを守ってくれているのだと心に言い聞かせながら見てまわった。

 夜は、馬車に乗ってスーク(市場)に出かけた。ルクソールのスークは、カイロのスークに比べると小規模であるが、田舎くささがあり楽しかった。一見恐そうなおじさんも、接してみると実にやさしく親切である。こんなおじさんたちにお願いしてカメラに収まっていただいた。

 ルクソール神殿も、夜はライトアップされていて一層きれいだった。ホテルに帰ったのは夜の8時。エジプトでの最後の夜ということで、旅行社の中央トラベル荒木社長さん主催のエジプト旅行反省会を開いていただいた。この6日間の出来事をみんな楽しく語り合った。


2月22日(火)
 エジプトというと、一般に大変暑いというイメージをもっていた。しかし今回の旅行は冬期で、旅行に最適の時期ということだった。しかし、大陸性の気候は昼と夜(寒い)の気温の変化が激しく体調を崩してしまった。

 この日は、ルクソール西岸地区の観光である。メムノンの巨像、王家の谷、クルナ村の村長さんの家、ハトシェプスト女王の葬祭殿を見学する予定である。

 少し早めにホテルを出発し王家の谷に向かった。王家の谷の入口から遺跡まではトロッコバスが運んでくれる。入口右手、山頂に早稲田大学・吉村作治教授(探検隊)のハウスと、もう1棟イギリスのカーターさんのハウスがあった。

 茶色の、一草一木も見えない岩山の各所に王家の墓がある。私たちは、最初にラムセス9世の墓、次にラムセス4世、ツタンカーメンの墓へと回った。いずれも、第18王朝〜第20王朝(新王国時代−B.C.1567〜1085年頃)に造られたものである。玄室に通じる通路には彩色の絵(レリーフ)が描かれており、その美しさには圧倒される。(ツタンカーメンの墓以外は、カメラ撮影OKである。)

 次は、クルナ村の村長さんの家に行った。家の中では、アラバスターの加工場と民芸品の即売場、また家の中にハトの巣(土壁にハトの入る穴巣がある)、地下には墓であったという洞窟があった。村人や子どもたちの写真も撮らせてもらった。こうして住民の人たちと接していると、この村の生活ぶりが垣間みられるような気がした。

クルナ村の人たちは、みんな黒い民族服かガラベーヤを纏っていることも不思議なことであった。

 村長さんの家から、ハトシェプスト女王の葬祭殿は近かった。ハトシェプスト葬祭殿では、数年前、日本人観光客が射殺されるという事件があった。観光客の安全を守るため、ここでもあちこちに武装した兵隊が看視している。神殿前から直線で緩やかに上がっていく坂道はかなりの距離があった。葬祭殿は、岩山の崖を利用して造られており、葬祭殿の周辺は引き続き発掘調査や整備作業が進められていた。また、この付近一帯は貴族の墓や葬祭殿がたくさん点在していた。

 そして、帰る途中、メムノンの巨像に立ち寄った。メムノンの巨像は、新王国時代(第18王朝)の絶頂期、アメンヘテプ3世の葬祭神殿の入口にあった。葬祭神殿は、後の王たちが石材として取り去ったので入口の巨像だけが残っている。その後、ローマ支配時代に地震に遭い、亀裂が入って今のような痛々しい姿になってしまった。

 このメムノンの巨像は、厳しい温度差により石がきしむのと、風により不思議な音を発するので、現地の人は“像が歌う”といっている。この日は風もなく、風音を聞くことはできなかった。

 午前中で、今回の旅行日程をすべて踏破することができた。再びホテルに帰り、帰途のルクソール空港に向かった。1週間ほどの限られた日程の中で、航空機の発着時間の変更など数々のトラブルがあった。しかし、ガイドのヤーセルさんは、いろいろと苦心をしながら予定の行程を要領よく案内してくれた。また、懇切ていねいにガイドをしてくれた。エジプトのガイド、ヤーセルさんに心から感謝を申しあげたい。

〈後感〉
 「旅」とは“現地を踏みしめ、大自然(景観)をこの目で確かめ、人々と触れ合うことである”。確かに、情報はいろいろな媒体を通じて知り得ることができる。しかし、現地に立って実物を目の当たりにすると、その感動は実に言葉では言い尽くせないものである。

(王国の盛衰)
 4500年以上もの昔、エジプト人はピラミッドという巨大な建造物を造った。紀元前5世紀頃からギリシャ人が観光に訪れていたなど、こんな事実をだれも想像できないであろう。また、これだけの大事業を成し得たエジプト人のパワー。宗教権力なのか、エジプト人の崇高な英知なのか、紀元前数千年もの太古に、これだけの大事業を行い栄華を極めたエジプト王国、そして衰退の道程はわれわれも大いに心しておくべきことかもしれない。新王国時代(ハトシェプスト時代)が終わり、末期王朝時代になると国土は分裂し、激動の時代に入っていく。
やはり、王家の莫大な財宝の蓄積、神殿、王宮、官庁への過大な投資、貴族や廷臣たちの奢りと王権の争い、そして近隣諸国との軋轢など、さまざまな要素が衰退に拍車をかけていったのではなかろうか。これが、クレオパトラの自殺によって王朝は完全に滅亡しローマの支配下となってしまった。

 クレオパトラ宮殿(都)は、アレキサンドリアの海中から発見されている。アレキサンダー大王によって紀元前4世紀に築かれた都である。また、クレオパトラは優れた頭脳の持ち主であり、絶世の美人であったとも言われている。

(各国が競って発掘調査)
 このように、エジプトは世界最古の文明発祥の地である。5千年もの長い歴史が砂漠のいたるところに眠っている。現在、この謎を解明すべく世界各国が競って遺跡の調査に取り組んでいる。この中で日本の早稲田大学探検隊は最先端の技術「透視」という方法により、遺跡を破壊せずに調査することに成功、各国から高い評価を得ているとも聞いてうれしく思った。

 今回、クフ王のピラミッドの中に眠っていた、第二の「太陽の舟」もこの技術によって1987年日本の探検隊によって発見され、現在本物と同じ材料(レバノン杉)を使って複製品が造られることになっている。やがて、日本でも私たちが目にすることができるのかもしれない。

(生活水準)
 見かけるところ、産業構造は悪いと見た。したがって、生活水準も低いと言わざるを得ない。公務員は給料が低い職種といわれる、それにしても月給 4,000円(物価水準は日本の10分の1程度)とはひどい。住居にしても実に粗末で(特に農村地帯)、エジプトではどの建物も建築途中のように柱が突き出ている。雨も降らないから天井(屋根)がなくても大丈夫のようで、やがて子どもが成長し世帯が大きくなると上に継ぎ足していくそうである。合理的といえば合理的かもしれない。

(教育)
 農村地帯では、文盲者が半数を超えるという。子どもは学校に行かせる必要はないとする親が少なくないというが、これも貧困のなせることなのか、実にかわいそうである。

そういえば、今回の旅行中、子どもたちの通学している情景を見かけなかったような気もする。

(長岡 榮 記)

(註)この旅行記は、ガイドの説明を主体に記述した。聞き誤り、思い違いがあればお許し願いたい。
 なお、参考文献として、『地球の歩き方(22)・エジプト』(ダイヤモンド社)を参考にさせていただいた。