暴力団ミニ講座

31) 賭博
別項「戦後の暴力団小史」の中でも触れておりますように、暴力団の沿革をたどってみますと、もともと暴力団は、博徒集団と的屋集団との二つが主体となっており、その色分けもはっきりしていました。

そのうちの的屋集団とは、露店を専門の稼業とし、親分子分の関係で組織され、一定の縄張り(的屋では「庭場」という。)を有する暴力的集団のことで、その歴史は古く、露店商人の守護神である神農信仰を中心に組織化されたものです。
一方、博徒集団についてみますと、博徒集団は、その名のとおり賭博で世渡りをしている者、すなわち、「博奕打ち(バクチ打ち)」の暴力的集団で、別名を「ヤクザ」と呼んでいました。

この「ヤクザ」の語源については、昔、歌舞伎者といわれる役者が大変派手な格好をしており、その格好を真似た無法者のことを「カブキモノ」とか「ヤクシャ」のようだといい、この「ヤクシャ」が訛って「ヤクザ」になったという説がありますが、通説では、博徒の本業である賭博で、一番悪い「目」は、八(や)、九(く)、三(ざ)の「ブタ」といい、これが転じて、「役にたたない者」を意味する「ヤクザ」になったということになっています。
なお、現在では「ヤクザ」は暴力団一般を指す言葉として用いられています。

ちなみに、江戸時代中期頃は、博徒のことを「長脇差(ナガドス)」とも呼んでいたようです。江戸中期の脇差は、1尺以下が小脇差、1尺7寸までが中脇差、1尺9寸までを大脇差といい2尺になると刀といっていました。
長脇差の寸法は特定していませんが、だいたい大脇差以上で2尺5寸位のものを長脇差と呼称していたようです。戦国時代に榛名山(ハルナ山、群馬)の中腹にあった箕輪城(ミノワ城)の武士達が好んで長い脇差を用いたところから、上州に集った博徒達が、自然に長脇差で武装するようになり、それが次第に博徒間に広まって行ったことから、いつしか博徒の別名になったといわれています。
その他、博徒を「渡世人」、「遊び人」、「極道」などとも呼んでいました。
なお、普通「博徒」と言う場合、博徒集団を指す場合と博徒個人を指して呼ぶ場合の二通りの用法があります。

ところで、賭博は我が国では古くから存在しており、「日本書紀」には、我が国で最も古い賭博に関する記事が載っています。こうした賭博〜賭け事が庶民階級にも広く浸透していったのが平安初期で、その頃すでに博徒が発生したといわれています。
さらに、こうした博徒が次第に組織化されていったのが、江戸時代前期といわれ、江戸時代中期になると、それ以前の半農博徒とか宿場博徒、中間博徒などと呼ばれていたものが下図のような階梯的組織をもつ集団を形成していったといわれています。

貸元はいわゆる親分で、一定の縄張りを持ち、賭場を開き、その手数料(テラセン、カスリ)を撤収する者。代貸は、親分の下で賭場を実際に管理する者。中盆は代貸が兼ねることもありますが、直接勝負にあたる者で一家の兄貴分がこれを勤めます。出方は賭場でお茶を出したり、使い走りをする子分衆。三下は出方の下で図示しているような役割を担う子分衆です。
当時彼らは、長脇差で武装し幕府や藩の取締りに反抗しながら、男伊達、侠客などの任侠集団を自称し、口入れ(人夫供給)や火消などを表看板に賭博をもって生活しました。
ちなみに、その頃の彼らの賭博は、「チョボイチ」、「丁半」賭博など賽(サイコロ)賭博が中心であったようです。

江戸時代後期になると、幕府や武士階級の力が弱まるにつれ、都市や農村を問わず、常設賭博場が各地に出現し、博徒集団も、親分子分の擬制の血縁関係で更に強く組織化され、槍や鉄砲などで重武装化した多くの集団が各地で跳梁し、手のつけられないような状態になったといわれています。
この時期、幕末から明治維新にかけて、講談や浪曲などでお馴染みの、清水の次郎長、国定忠治、黒駒の勝蔵、会津の小鉄、新門辰五郎、勢力富五郎など著名な博徒の大親分が出現しました。
講談や浪曲の世界では、彼らは仁義に厚い庶民の味方として美化し語られていますが、その実像はそれとは正反対で、義理や人情も弁えない庶民泣かせの凶暴な親分衆であったようです。

明治維新以降も博徒集団は依然として存続し、維新直後こそ新体制の障害になるものとして、博徒の活動は強制的に抑えられましたが、明治10年頃になると政府の取締りもゆるみ、博徒の活動が大変盛んになりました。
その後、明治17年に太政官布告による「賭博犯処分規則」が施行されて、取締が強化され、「大刈込」といわれた博徒の大量検挙なども行われました。しかし、明治22年に「賭博犯処分規則」が廃止されるとともに、博徒集団は息を吹き返し、大規模な縄張り争いを繰り返すなど、その活動は再び降盛となり、東京浅草では700〜800人もの子分を擁した親分も出現したといわれています。
また、その頃は「オイチョカブ」、「ホンビキ」などの花札賭博が大流行した時期でもありました。

その後、日清、日露の戦争を経て、我が国の社会経済の急激な発展は、博徒稼業の質を変化させ、賭博専業の博徒から、歓楽街、興業界、土建業、港湾荷役、炭鉱地区等に進出する複雑な形態に移って行きましたが、賭博を本業とするその本質には変化はなかったわけです。
また、彼らは一方では、当時の右翼政治活動との繋りを強め、時の政治に癒着しながら、組織の存続強化を図って行きました。

ところが、昭和20年代の戦後の混乱期になると暴力集団として、青少年不良集団である「愚連隊」が出現し、それまでの博徒、的屋などの利権が荒されるようになり、これら新・旧勢力間の利権をめぐる対立抗争が激化する一方、組織の離合集散の結果、渾然として、各々の組織的色分けが次第につかなくなって行きました。
また、同時に、各々の組織は利益になるものは何でもするようになり、現在では、賭博を本業とする暴力団はほとんど見当らなくなりました。
しかしながら、現在の暴力団にも賭博を稼業として嗜好する体質は濃厚に残っており、また、賭博は彼らの有力な資金源ともなっているところから、暴力団と賭博は、今でも切り離せないものとなっています。

なお、最近における全国の賭博の検挙状況は次のとおりとなっていますが、これは氷山の一角ともいわれています。

賭博の検挙状況(全国)

年別検挙件数(うち暴力団)検挙人員(うち暴力団)
平成7年703(464)5,270(2,681)
8年588(373)4,100(2,482)
9年604(397)3,253(1,728)
10年515(350)3,372(1,881)
11年291(222)2,327(1,575)


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